第2話 花籠の教会

「いつもありがとう。これで美味しいパンがまた焼けるわ」

「別にいいよ。こっちだっていつも焼きたてのパンが食えるんだ。ありがとう、おばちゃん」

「ノア、またよろしくね」

「任せとけ!」

 元気の良い声をあげた少年が、サンドウィッチを頬張りながらパン屋の扉を開ける。カランカランと可愛らしいドアベルの音と共に、眩しい朝日が店内に差し込んだ。

 ここはロット村の中心部にある、アンナが切り盛りをしているパン屋だ。朝早くここにライ麦や小麦を届けるのがノアの日課だった。店内にはいつもパンが焼ける香ばしい香りが漂っている。

 届けるのはライ麦や小麦ばかりではない。今ノアが口にしているサンドウィッチに使うレタスやトマト、ジャムにするための苺もそうだ。

「ノア、いつも新鮮な野菜をありがとう」

「なんてみずみずしい果物かしら? ノア、ありがとう」

 朝早くから人々で賑わう朝市には、その日収穫したばかりの野菜をたくさん届けた。艶々と輝くトマトに、みずみずしいレタス。それに大きなジャガイモ。真っ赤な林檎に、見ているだけで顔が歪んできそうな丸々としたレモン。可愛らしい花もたくさん置いてきた。

「本当にありがとう、ノア」

「ノアが来てくれてから、この街は生き返ったよ」

 そんな皆の笑顔を見ればノアは、この上なく嬉しくなった。

「そう言ってもらえて、こちらこそありがたいよ。また明日な」

 ヒラヒラと手を振れば、その場にいる皆が笑顔で見送ってくれたのだった。


 ノアが、今身を寄せているのはリリス村よりも大きな村だった。村のメインストリートを歩けば、粉引き屋や鍛冶屋が生き生きと働いている姿を見かけることができる。子供の笑う声も聞こえてくるし、それ程多くはないものの、牛や馬、羊などの家畜もいて草をモグモグと食んでいる姿を目にした。

「よかった。今日も平和だ」

 その穏やかな光景を見て、ノアは胸を撫で下ろす。

 ノアがここにやってきたのは数年前。あの忌まわしい出来事のあと意識を失ったノアが目を覚ました時には、この村にある教会のベッドで寝かされていた。

 イヴァンが村を襲い両親を殺害した記憶は、ノアの心に深い傷を残した。一時的に花を生み出すことさえできなくなったノアを支え、今日まで世話をしてくれたクレイン司祭と、その妻のマーガレットには感謝をしてもしきれない。

 夫妻の優しさに支えられながら、穏やかな生活を過ごすうちに少しずつ傷は癒え、また花を生み出すことができるようになったのだった。

 あの後、村がどうなったのかはわからないが、風の噂で火が放たれたと聞く。それが真実なのかを確かめに行く勇気はノアにはなかった。

 忌まわしい記憶に蓋をして、ロットの村人の為に花を生み出し、種を作る。たくさん実った作物を目にした村人達の喜ぶ姿が、今のノアの生きる望みだ。

 荒地だったこの村も、ノアがやってきてからは少しずつ緑を取り戻してきている。村一面に広がる畑にはたくさんの作物が育ち、原っぱには綺麗な花が咲き乱れるようになった。

 げっそりと瘦せ細っていた村人の顔も、今は活気に満ち溢れている。

 それと同時に、両親を失う原因となったこの能力を呪う自分も否定しきれなかった。この能力さえなければ、こんなにも辛い経験をすることはなかったのかもしれない。そう思えば、胸が張り裂けそうに痛んだ。

 ――でも俺は、誰かの役に立てているんだ。

 そう自分に言い聞かせ、今にでも粉々になってしまいそうな心を、ノアは日々奮い立たせては村人たちのために励んでいた。


 小高い丘の上にクレイン司祭の教会はひっそりと佇んでいる。けっして大きくはないレンガ造りの建物に朝日があたり、ステンドグラスがキラキラと輝いている。

 クルゼフ王国の中心に聳え立っている、リヴィア教会に比べるととても小さな教会だが、人々の憩いの場としてもここは大切な場所だった。

 村人たちへの配達が終わりノアが教会に戻る頃には、朝の祈りを捧げる村人で賑わっているのが常だ。ノアが村人に作物や花を分け与える代わりに、村人たちは家畜の肉や新鮮な卵、手作りの洋服などを届けてくれるのだ。

「ノア、いつもありがとう」

 ノアの周りは、いつも笑顔で溢れている。

 いつからか、このノアが暮らす教会は『花籠の教会』と呼ばれ、皆に親しまれるようになっていた。


「ただいま。クレイン司祭、マーガレットさん」

「おかえりなさい。今日もお疲れ様。すぐに朝食にしますからね」

「はい、ありがとうございます」

 朝の仕事を終えたノアをマーガレットが笑顔で迎えてくれる。マーガレットはノアの両親と同じ位の年齢に見えるが子供がいないらしく、ノアを我が子のように大切にしてくれた。

「あぁ、ノア。お疲れ様」

「あ、クレイン司祭。おはようございます」

「今日も村人の為にありがとう。君は私たちの誇りだよ」

 脱いだローブを丁寧に椅子の背もたれにかけながら、クレイン司祭がノアの肩を叩く。

 クレイン司祭はマーガレットより少しだけ年上だろうか? 顔に刻み込まれた皺が、彼の穏やかな表情を更に引き立てている。その慈愛に満ちた雰囲気は立派な司祭そのものだった。

 そんなクレイン司祭に面と向かって褒められ、ノアの頬に自然と熱が籠っていくのを感じる。

「さあ、朝食をいただくとしよう」

「今日はね、採れたての卵を目玉焼きにしてみたのよ」

「ほぅ……それは楽しみだね」

 こんな幸せな時間を過ごしているうちに、あの忌々しい出来事が夢だったのではないか……。いや、夢だったに違いない。今だって、リリス村に行けば両親が自分を待っていてくれているかもしれない。そんな風にさえ思えてくる。

 ——いや、そんなこと、あるはずはない……。あの二人の悲鳴を、あの男の言葉を、どうやって忘れるっていうんだ。

 そう言い聞かせるように思うたびに、ノアの頭は、くらくらと揺れる。

 クレイン司祭もマーガレットも、あの日のことを話そうとはしない。どうして自分はここにいるのかと、クレイン司祭に問いかけても「君をよろしく頼む、とここに預けた人がいるんだ。それ以上は話せない」と言葉を濁されてしまう。

 その横で寂しそうに笑うマーガレットを見れば、それ以上のことを聞くことなんてできなかった。

 見も知らなかったであろう自分を、我が子のように大切にしてくれるクレイン司祭とマーガレットが困るようなことは、それ以上したくはなかったから。


 ◇◆◇◆


 慌ただしい昼間が終わり、静かな夜が訪れる。

 日中は村人との交流と、農作業や家畜の世話に追われ、ホッと息をつくことができるのは月が空高く昇ってからだった。ノアは静まり返った教会を訪れ、祭壇の前に跪く。この時間がノアは一番好きだった。

「今日も疲れたな」

 ノアは心地よい疲労感に包まれ、そっと目を閉じる。

 物音ひとつしないこの世界は、食糧難だったり争いだったり、傍若無人な国王陛下だったり……。そんな世界とは全く無縁なような気がした。星の瞬く音さえ聞こえてきそうで、体中の力が抜けていく。ノアはそっと呼吸を整えた。

 目を閉じていると、あの日の出来事が瞼の裏に思い起こされて心が張り裂けそうになる。涙は大雨が降ったときのように溢れ出し、叫び出したい衝動に駆られた。

「思い出したらいけない……」

 自分に言い聞かせるようにそっと呟き、雑念を振り払った。ふと見上げれば豊作を司る神、『ダルメア』の像が優しく微笑んでいる。かめを脇に抱え、片手で天を仰ぐその姿は、雨雲と幸福を呼ぶと古来より言い伝えられていた。

 クルゼフ王国はダルメアを主とする『ダルメア教』が多くの国民に信仰されて、皆豊作を願い熱心に祈りを捧げている。

「ダルメアよ……我にご加護を……クッ‼」

 ノアがそっと囁くと、頬をスッと一粒の涙が伝う。その瞬間、瞳に強い痛みを感じたノアは思わず目を両手で覆う。頭がズキズキと割れそうに痛み、息苦しさを感じたノアは肩で呼吸をした。

「はぁはぁ……」

 あまりの苦しさにノアの青い瞳からはポロポロと涙が溢れ出し、その雫はベコニアの花に姿を変えた。

 花生みが花を生み出す瞬間、多くの花生みが強い痛みを感じることが多い。

 ノアが涙を流すと、その涙が花に姿を変える。花生みが花を生み出す方法は様々だ。毛先に花が咲く者もいれば、口から花を吐き出す者もいる。だがどの方法も、花生みは強い苦痛を感じてしまうのは避けられない。

 ブートニエールの関係にある花食みに愛されれば愛されるほど、この苦痛は軽減されると言われているが、ブートニエールどころか恋人さえいないノアは、この痛みをひたすら耐えるしか方法はなかった。

『ノア、いつもありがとう』

 村人達の笑顔を思い出せば、こんな痛みなどどうってことないだろう……と、ノアは自分に言い聞かせる。

「痛ぇ……」

 ノアは痛みに耐えながら、涙を流し続けた。

 

 翌朝、たくさんのベコニアを持ち食卓へとやってきたノアを見て、マーガレットが目を見開いた。血相を変えながらノアに駆け寄ってくる。

「ちょっと、ノア大丈夫? 顔色がよくないわ。無理をし過ぎなんじゃないの?」

「いいえ、大丈夫です。ちょっと疲れているだけですから」

「本当に? いくら誰かの為と言っても貴方が倒れてしまったら元も子もなくなるわ。無理だけはしないでちょうだいね?」

「……はい、ありがとうございます」

「ノアは私たちの宝物だということを、忘れないでね」

「わかりました」

 自分のことを心配してくれるマーガレットの優しさがとても嬉しい。この能力が欲しくて、殺人まで犯す国王陛下もいるというのに、心優しいマーガレットは「無理をするな」と言ってくれる。クレイン司祭とマーガレットに出会わなければ、ノアは今生きていないかもしれない。そう思えば、心が熱くなった。

「そう言えば、またあの手紙が届いていたわよ」

「本当に?」

「ふふっ。本当にこのラブレターが待ち遠しいのね?」

「そ、そんなラブレターなんて……」

「ふふ、照れちゃって。ラブレターでしょ? 送り主もわからないラブレターを待つなんて、青春じゃない! しかも、今回もまた綺麗なハンカチーフ付きで……若いっていいわねぇ」

 顔を真っ赤にしながら狼狽えるノアに、マーガレットは手紙を渡す。それから、鼻歌を歌いながら「無理だけはしないでね」ともう一度言い、キッチンへと消えていったのだった。

 その手紙を見るだけで鼓動が少しずつ速くなっていく。ノアが教会に来てしばらくしてから、時々、教会の扉に手紙が挟まっていることがある。それは不定期ではあったが、いつからか、ノアはその手紙を待ち侘びるようになっていた。

 ふぅッ……と呼吸を整えてから封を開ける。手紙を傷つけてしまわないように、ゆっくり、丁寧にナイフを使って開封していく。心を躍らせながら綺麗に畳まれている便箋を開けば、いつものように整った文字がびっしりと並んでいた。 

 その文字一つ一つを慈しむかのように、ノアは視線を落とした。


『ノア様

 いつも美味しい野菜と、美しい花をどうもありがとうございます。今回送っていただいた向日葵の花は、元気で明るい貴方のようで、見ているだけで元気になってきます。それに、大きなお芋もありがとうございます。とても美味しかった。ポタージュにしていただきました』


「向日葵が俺みたいだなんて、頭がおかしいんじゃないのか?」

 照れくさくなって、つい悪態をついてしまう。本当は心臓がドキドキと高鳴るくらい嬉しいのに……。天邪鬼なノアは素直に嬉しいと言うことができない。

『これから暑い夏がやってきます。作物を頂けることは大変喜ばしいことですが、貴方の体も心配です。どうぞ、私たちの為に無理だけはなさらぬように……。優しい貴方が無理をして体を壊されるのではないかと、いつも心配しております。では、またお手紙を書かせて頂きたいと思います』

 手紙には送り主の名前が書いていないため、誰が送ってくれたのかさえわからない。しかし、綺麗な文字にノアを労わる優しい文面……。

 手紙はいつも誰にも気づかれないうちに、教会の扉に挟まっているからノアは手紙の送り主のことを何もしらない。

 ただ、この綺麗な文字とノアを気遣う文面を読むだけで、手紙の送り主が優しい人物だということは想像に難くない。

 相手が男性なのか、女性なのか? 年齢はいくつくらいなのか?

 そんな情報さえ知らないまま、その誠実な文章にノアは惹かれてやまないのだ。

 そして、いつも手紙には美しい刺繡が施されたハンカチーフが添えられている。クルゼフ王国では、思いを伝えるときにハンカチーフを送る風習がある。それになぞらえているように思えた。

「わぁ……すげぇ綺麗だなぁ」

 今回送られてきたハンカチーフには、向日葵の刺繍がされており、黄色い生糸が太陽の光を受けキラキラと輝いて見える。

 いつも当たり前のようにハンカチーフを送ってくれるけど、きっと高価なものに違いない。物の価値に疎いノアでもわかるくらい、そのハンカチーフは美しく繊細な刺繍が施されていた。

『向日葵の花は元気で明るい貴方のようだ』

 手紙に書かれていた一文を思い出して、頬が一瞬で熱くなった。一体、この手紙の送り主は自分に何を伝えたいのだろうか……。深く考えれば考えるほど鼓動がどんどん速くなっていった。こんなところをマーガレットに見られたら、きっとまたからかわれてしまうことだろう。

「いつかこの人に会ってお礼が言いたい……」

 それでもやっぱり嬉しくて、ノアはそっと手紙とハンカチーフを抱き締める。

 ただ——。かつて一度だけ、ノアは手紙の送り主を見たことがある。

 それは後ろ姿だけで、顔も見えないし、影さえも遠い。どんな人物かもわからなかったが、その人物は白馬に跨っていた。教会を後にしようとするその人物に「待って!」と声をかけると、振り返りもしなかったが、馬の足がぴたりと止まった。

 ノアは遠くから、大声で叫ぶ。どうしても、手紙の送り主にお礼が言いたかったのだ。

「あんたなんだろう? いつも手紙とハンカチーフを届けてくれるのは? ありがとう」

 ノアの声は届いているはずなのに、振り返ってはくれなかった。それでも、ノアはもう一度大声で叫んだ。

「本当にありがとう!」

 馬の嘶く声と共に光が差し込む森の中へと、その人物は消えていってしまったのだった。

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