つくもの

@Rin_tyokki

第1話 月に語りかける



曇天、鈍は月を求厶。

天見上げ脳幹を押す雨粒に遅れて気付く。

___雨。

白絹の衣が雨に染まり鼠色へと変わる様、正しく堕つるモノ也。

女、刀をその両の手で握り雲に突き立てる。

__刹那。

音無く、光無く、刀は地面を指して居た。

満足足ると、女は刀を鞘に納めて揺れながら歩く。

雨天、先の一閃によって払われ霧散し、白球その全てを晒す。

未だその刃、月に届かず。

然して何れ届くその刃を、誰が。

__誰が、害せようか。


________


私は神様を信じていないけれど、祈りを捧げる。

ふと思う。

ならばこの祈りは、一体誰に届いているのかと。

一礼二拍手一礼。

綺麗な所作で一連の動きを終えると、真っ直ぐに本殿を向く。

そして目を閉じ、願う。

願いを乞うのは、見目麗しい儚げな美少女。

そう、この私。

名前を夜音。

変わった色の瞳と、整った容姿である事以外は普通の大学生。

そんな私には、誰にも言えない一つの大きな悩みがありました。

「こら、神社でお酒飲まない。」

自らの背後に居る黒い靄に、そう語りかける。

そこに居るのは死装束を纏い、顔に布が掛けられた女。

その布には”鏡”と書いてあり、長い白髪が腰まで伸びて風に揺られている。

布から見える脚は長く白い。

……それが、少し羨ましくもあり、死人の肌に嫉妬とはこれ如何に、とも思う。

「おや夜音さん。今日は願掛けかい?」

「あ、絹さん。」

話しかけてくるのは、この神社の管理人である絹さん。

この神社の女神主で、私の趣味の俳句仲間でもあります。

「はい。そろそろ向き合わなくてはならない問題に、ようやく取り掛かろうかと決心がついたのです。」

母の葬儀に彼女が現れてから凡そ三年。

二人での生活にも慣れ、色々落ち着いてきたこの頃合い。

彼女を知るには、良い機会であると。

そう思ったのです。

「おやそうか。

いつものガチャ祈願じゃないのかい。」

「ふっふっふ、それは来週ですよ絹さん。

次は人権サポートキャラが復刻するので、是非とも迎え入れたい所です。」

と言っても、いつも天井まで叩く羽目になるのですが。

「……頑張るのは良いけれど、あんまり無理はしないようにね。現状を変えるというのは、利益だけじゃなくて損失を伴うものだから。」

彼女はあまり、情熱的な事は言わない。

それが年の功というものなのか、それとも本人の気質なのかは分からないが、頑張ることが是、常とされる今の世の中で彼女の意見は少し貴重に思えた。

絹さんと世間話をしながら、背後を見る。

背後の幽霊がこんな歪な格好をしていても、日本酒をがぶ飲みしていても、それを誰も指摘する事は無い。

言わずもがな、彼女の姿は私以外には見えないのだ。

「……では絹さん。私、そろそろ行きますね。」

「おや、そうかい。引き止めて悪かったねぇ。今からジムかい?」

「はい。乙女たるもの愛する者を守る筋肉がなくては。」

「うんうん。相変わらず良い心がけだね。

……相手が見つかって居ない事を除けばだけど。」

「はっはっは。相変わらず絹さんは口が回りますね。

筋肉は守る為だけではなく障害物を排する事もできるんですよ。」

「おや怖い、危険物所持で通報しましょうかねぇ。」

「それならジムに居る人はみんなテロリストですよ。」

「危険なのはその思想だよ。

……それじゃあ、行ってらっしゃい。」

絹さんに見送られながら、参道を歩いてゆく。

振り返って絹さんに一礼する瞬間、夜音の視界にハッキリと異物が映った気がした。

「あ、絹さ……」

「?」

そこまでいって、留まった空気を飲み込む。

これは、自分で抱えると決めたものだ。

人に言える程、私は成熟していない。

「……いえ、さようなら。」

階段を降りながら、夜音は少しだけ寂しい気持ちになった。

「……幽霊は、未練があって現世に留まるとは言いますが。

貴女は何故私に憑き、何を願っているのか。

それを知れたら良いですね。」

彼女の頬を撫でる。

空気の膜に触れるような掴みどころのなさを感じて、彼女が人では無いのだと、そう改めて思った。

夜音はそんな願いと覚悟を抱きながら、日課であるトレーニングの為ジムへ赴く。

____


郊外から街へ戻ると、ガヤガヤとした喧騒が耳を打つ。

街の賑わいは私にとっては何時もの日常で、この騒がしい景色が家だ。

不思議なことはあれど、平和と言う言葉の域を出ない日常。

微温湯に浸かっているかのような日々を、私は充足した気分で過ごしている。

……過ごしているのだ。

「ん……?」

道端にある何かに、ふと目が吸い寄せられる。

それは箱のようなオブジェのようなもので、用途は分からないながらも美しい造形をしていた。

正十二面体。

見方によれば正二十面体とも言われる図形を模したソレは、半透明な素材で作られているようで、光を吸い込んで鈍い輝きを放っている。

導かれるように、ソレに近づく。

1歩、また1歩と近づく度、それの形と奥底の欲求は明確になってゆく。

夜音は取り憑かれたかのように目が吸い寄せられて離れない。

直に触れたい。

いや、触れなければ。

自分のものにしなければ……

__そうか、そうだ。

これは、私の____

「おや、綺麗な人。私の物に何か?」

声をかけられて、初めて隣に人が居たと気付いた。

その瞬間、自分がどんな状況にあるのかを理解し、すぐ様ソレと距離を取る。

「す、すみません。

余りにも綺麗に見えたので……」

声の主は、とても可憐な少女だった。

中学生位の年齢の、金髪碧眼の少女。

人形の様な均整のとれた美しさで、思わずその美貌に見蕩れる。

脳の上部を通過するかのような声がとても印象的だった。

「そう言ってくれるなら嬉しいけど……残念な事に、これは譲ってあげられない代物なんだ、ごめんね。」

「い、いえ。

流石に人のものを強請る程、私も困窮してはいないので。」

そうアッサリと断ったつもりだったが、内心ではかなり落ち込んでいる自分がいて。

思考と感情の乖離が激しい事を不思議に思った。

「……代わりと言ってはだけど、これを君に。」

そう言って、少女はある名刺を差し出す。

「喫茶店”エルデ”……?」

「うん。私達の店の名前。

来てくれたら何でも奢るし、困った事があったらなんでも頼って。

相談所も兼ねてるからさ。

……あ、ゴメン。

これを店まで戻さなくてはならなくてね。

それじゃまた、縁があったら。」

その言葉を最後に、少女は足早に人混みの中を走り去ってしまった。

風に乗って、彼女から仄かにコーヒーの匂いが運ばれてくる。

「何だったんだろう、あの子。」

そんな疑問を胸に、夜音は再び道なりを歩く。

平和が崩れる音は小さく、その亀裂は人に見えない。

夜音もその例に漏れず、日常に生じたその亀裂に気付くことは無かった。

___


夜音宅


「ただいま帰りました〜。」

まぁ、誰も返さないんですけど。

一人……いや、1.5人暮らしの深刻な害を感じながら、夜音はさっさと風呂の支度をする。

服を脱いでから体重計に乗り、書いてある数字を凝視する。

「……2キロかぁ。」

ラーメン三杯は流石に食べ過ぎたかと腹を摩るが、割れた腹筋の前では常人にとって誤差である。

今見た数字は取り敢えず忘れて、浴室に入る。

「相も変わらずスレンダーで美しい体型ですよ、私。」

自分の肉体美を自分で賛美し、ポージングを取ってさらに美しさを表現する。

これは儀式であり、魔術であり、呪いだ。

母から受け継いだ、数少ない遺伝でもある。

その後大人しくシャワーを浴びていると、ふとシャンプーの詰め替えをしていなかったと気付く。

「すみません、詰め替えお願いできます?」

夜音の声掛けに幽霊は靄を纏いながら現れ、浴室の扉を開けてシャンプーの詰め替えをする。

結構長く彼女と生活して分かった事だが、案外頼み事は素直に聞いてくれるようで、ちょっと位のお願いならやってくれる様だ。

……まぁ、頼み事一つ毎にお酒を一本持ってかれるんですけど。

今日も酒が一本減ったと何とも言えない顔をしながら湯船に浸かって、筋肉の疲労を癒す。

少し今日はオーバーワーク気味でしたかね……

そこまで追い込んだつもりは無いのですが。

筋肉の痛みを確認し、夜音は自分の脚を摩る。

その様子を、彼女はじっと見つめている。

「……」

「居たんですか。

乙女の入浴を覗くなんて同性でも感心しませんよ?」

彼女は答えない。

喋れないのだろう。

今まで一度も彼女の声を聞いたことは無い。

彼女は求めない。

無欲なのだろう。

今までこちらに何かを希求しようとしたことは無い。

……彼女を怖いと思った事は無いが、不思議だと思う事は多々ある。

だから、私は先ず貴女を知ってみたい。

お酒が好きな事とか、甘味に目がない事とか、そう言うものじゃない、確かな貴女を。

「……余り長く湯船に浸かるとのぼせるので先に出てますね。」

夜音はそう言い残すと、すぐ様浴室から出てしまった。

残された彼女は、自分の姿を鏡で見た後黒い靄と共に消える。

リビングに入った途端、一日の疲れの皺寄せが一気に身体にのしかかり、我慢出来ずにソファへと横たわる。

夕飯は……済ませた。

明日は……休み。

なら、大丈夫。

安心出来る材料を整理して、うとうとと瞼が重量に負けていく。

「……それにしても、あのオブジェ。」

微睡む意識の中で夜音は思い出す。

異様に目を引き、今も思考の片隅に居るアレ。

「アレは…一体……」

その言葉を最後に、夜音の思考はそこで途切れる。

鼻ちょうちんを出して眠りに入った夜音の身体の上に跨る様にして、”幽霊”は夜音の頭を撫でる。

「…………」

彼女は何も発さない。

ただ、夜音の顔を覗いて見守るだけである。

「すぅ……すぅ……」

寝ている彼女の顔は実に無防備で。

余程、疲れていたのだろう。

……”そこにある異物にも気付かぬまま”寝てしまった。

テーブルの上で、正二十面体のオブジェが照明の光を受けて不気味に輝いていた。


とある少女の証言


リンフォン…と言うものを知っているかい?

ネット上にある怪談で、パズルが進むに連れて最終的には地獄が顕現すると言う呪物の話さ。

熊、鳥、魚……そして最後に地獄の門が顕現し、組み立てた者を地獄に送る。

まぁ、あくまでネットの怪談だし、そこに信ぴょう性は無いとも。

そも、創作では普通に呪われるけど、本来呪物は無差別に人を呪ったりしない。

何かの条件に合致し、且つ触れて初めて効力を発揮するんだ。

宿主を選ぶって言うのかな。

選ばれた者でないと、呪われることも出来ないんだよ。

まぁ、神秘との親和性が余りにも高いと、触れなくても呪われる例はあるけどね。

でも、現代にそんな人先ず居ないし。

というか、解除方法は周知だけど”アレ”の発動条件は紛失して分かってないじゃないか。

まさか、偶然発動条件を満たす者が居て、移送中に縁を結んだと?

もしそんな事があったのなら、最早それは災難ではなく”運命”と言うものだと思わざるを得ないね。

……あぁそう言えば、今日は綺麗な娘を見かけたんだよ。

黒髪の透き通った、変わった瞳の娘。

え、なんだいもう帰るのかい?

……ん?照桜とは関係の無い話だと思った?

はっ。

私が君にそんな意味の無い事を言った事があるかい?

君なんかと仕事以外で話す訳ないじゃないか気持ち悪い。

で、その娘がリンフォンを見て言ったんだよ。

私のモノだって。

__あの子はその運命に選ばれた者なんだ。

だからさ、あの子の連れは離してよ。

___


棺の中の母は、穏やかな表情で眠っていた気がする。

白い花と喪服の黒は、世界がモノクロであると錯覚させた。

この葬式場に居るのは三人。

私と父と兄だけ。

無駄に広い式場に腹が立った。

それは母を辱めているとすら思えたから。

滞りなく通夜、葬式、納骨までを済ませ、そうして寺の墓の前で父と兄の三人で並んで線香をあげる。

墓前で手を合わせる父の背中を見て思い返せば、母が亡くなったと報せがあったときから今の今まで、私は一度も父と会話をしていない。

何故忘れていたのだろうか。

そこまで仲が悪いという訳では無いのに。

何か話そうかと思い立った時には既に、父は墓前から離れて供花を取りに行っていた。

残ったのは、墓前で未だ手を合わせている兄と、私だけ。

何か、話した方が良いのだろうか。

母の死に目にすら会えなかった、私のような親不孝が。

そんな思考の袋小路の中、空気を読んだかのように兄の携帯が鳴る。

忌々しそうに画面の名前を見ると、怪訝そうにその場を離れ電話をしに行ってしまった。

「お母さん……」

ついに一人となった墓前で、自然とその言葉が零れる。

家を出る前から、こういう可能性を考えていない訳では無かった。

でもいざその悪夢が現実になると……

拳を握って掌に血が滲む。

悲しみと苦しみが綯い交ぜにされた感情のひと皿は、私の心を蝕んで色を落とす。

頬に伝った水の流れを、何かが拭った気がした。

「え……?」

目の前に居るのは、死装束を着た女。

真っ白な髪に長い足とまるでモデルのような佇まいだが、それよりも目を惹くのは顔に掛かった”鏡”と書いてある布。

「……お母さん?」

その姿と妙に感じる懐かしさが、なぜだか棺の中の母と重なって。

先程よりも多くの涙が溢れて止まらない。

あぁ、母は成仏出来なかったのか、ゆっくりと休む事さえ叶わないのか。

それがただ、悲しくて……

止まらない涙を、今度も女はその白雪のような指で拭う。

「否。」

その言葉を聞き、夜音はハッと頭をあげる。

その顔の文字が”否”に変わっており、この目の前の女が母では無いのだと理解する。

「では、貴女は……」

誰なのか。

そうした疑問が浮かぶのも当然だった。

だがもう彼女は答えない。

その長い白髪が、突風に吹かれて舞った。

_____


懐かしい記憶から生還を果たして、周囲を見渡す。

薄暗い空間は光源も無く、何によって光がもたらされているのか分からない。

地面はあるがそれだけで、上下左右が混濁し感覚は麻痺している。

ここがどこなのかは分からないが、それでも異常な現象に巻き込まれていると言う自覚と、ここに長居したら死ぬという直感はあった。

……先ずは現状だ。

自分の頬を抓る。

「痛くない。」

しっかりと痛覚はある……と思ったのだが。

少なくともこれが現実では無いと理解した。

いやそもそも、現実だったら筋肉痛で悶絶している筈だ。

これがただの明晰夢である事を祈るが、脳内はそれを否定する。

ここでの死は、現実の死と深く関わっている気がしないでならない。

では次、ここに居る理由は?

……納得はしていないが、薄々理解している。

あの正二十面体。

アレを見てからどうも頭が痛い。

どうしても手に入れなければと言う強迫観念がインクの染みのようにこべりついている。

「居ますか?」

近くから、彼女の気配は感じない。

完全に一人であると言う事実が身体の熱を奪って、凪のような感情が、胸中に広がっていく。

「一人は、いやですね。」

彼女が居る事が当たり前だった日常を、少しだけ贅沢に思っていた節がある。

誰かと共に居る事は容易いが、誰かと共に在る事は難儀だ。

彼女はそんな難儀な事を叶えてくれた、僅かしか居ない稀有な存在だった。

刻刻と、死が近づいているのを感じる。

何も出来ずに、何も残せずに、ただ待って死んでゆく。

「……あぁ、そうか。」

薄暗く、果てのない空間で一人死を迎える。

私が最も忌避する結末。

言い換えるなら、ここは私にとっての……

「”地獄”だよ。」

聞き覚えの無い声が背後から聞こえ、夜音は咄嗟に振り向く。

いや、その声に聞き覚えはあった。

長く艶やかな金色の長髪。

紺碧の瞳は、私の心を見透かすかのようだ。

見た目にそぐわない程の貫禄と威厳は、凡そ少女の纏うものでは無い。

「あの時の……」

と言うかなんで半透明……?

「うん、また会ったね綺麗な人。

私の名前はヘルメナス、ヘスと呼んでくれ。

あの時は名乗りも上げずに立ち去ってしまって済まなかったよ。

改めて宜しく。」

「あ、えと。

私は夜音…です。」

「ヨネ__うん、覚えた。」

事態をまるで理解出来ていない夜音に対し、ヘスは淡々と自分に事実を述べてゆく。

「実は、君の同居人が店を訪ねてきてね。

随分と慌てていたようだったから、事情を即座に理解して咄嗟に来たって訳さ。」

……整理しよう。

先ず、この人……ヘスには彼女が見えている。

そして、ヘスはここに入る方法も知っている事から出る方法も分かっている可能性がある。

ならば、私が取れる選択肢は一つ。

「私がここから出るにはどうすれば?」

夜音のその問に、ヘスは内心感心する。

色々と巡った思考を最低限の整理で済ませ、先ずは現状の打破の方法から切り込む思考はヘスにとっても好感の持てる思考の順序立てだった。

「__と。脱出についてだったね。」

ヘスは一呼吸置くと、思考を切り替え現状を突破する為の策を出力する__そう、夜音は思っていた。

「出る方法はある。だが、生き延びることはできない。」

頼もしく感じられたその貫禄や威圧感は、いつの間にか得体の知れないものに対する恐怖に対するものに変わった。

「君を呪っているのは”リンフォン”と言う呪物だ。

極小の地獄の門、または極小の地獄そのものと言われるほどに危険で重要な物。

見初められた者は脳をリンフォンに支配され、出たとしても次の日にはまたココに帰る。

このまま居ても死ぬ。

ここから出ても何れ死ぬ。

__だから、賭けをしないかい?」

ヘスは声色を変えずに喋りつつ、懐からリボルバーを取り出して、夜音の頭へと突きつける。

「時間が無いから、理由も方法も教えないけど……分かるよね?」

「”信じて撃たれろ”と?」

「__そうだ。先にごめん、とだけ言っておこう。」

その動作に淀みは無く、迷いは無い。

親しみを込めて話しているときも、殺意を込めて話すときも。

彼女は何ら変わらず同じ事を喋るかのように淡々と話す。

命の価値を理解して、尚それを傾いた天秤に掛ける健常さと異常さは、人の倫理を超えている。

だが夜音には、最後の謝罪だけ見た目相応の少女の本心が見えた気がして。

顔を伏せ、思案する。

次に顔を上げたとき、夜音は今からの行動の覚悟を決めていた。

「__やるしか、ありませんか。」

ヘスは、その顔を見て一歩退く。

冷徹な銃身が、微かに揺れたのを夜音は見逃さなかった。

夜音は思い出す。

モノクロな景色の中にある、嫌に鮮やかな紫陽花の色を。

別れも言えず、死に目にも会えなかった__そんな母の墓前で慰めてくれたあの同居人の顔を。

「さようならを言うのは、私からって決めてるんです。」

小さな微笑みすら浮かべて、あの日誓った決意を、夜音は口にする。

「__ありがとう。そしてさようなら、ヘスさん。」

夜音はヘスの手に握られた銃の引き金を、彼女の手を絡めながら自らの意思で引く。

乾いた破裂音と共に、夜音の頭に火花が散る。

鮮血が飛び散り、その頭には彼岸花の冠が咲いた。

遅くなる死の情景、絶望の淵、明度の低い地獄で彼女は見た。

発砲の衝撃で顔を仰け反らせ、恐怖と迷いを宿した瞳を向けながら、その口の端を上げ、頬を紅潮とさせている女の笑顔を。

そして聞く。

本来なら届く筈の無い、その者の口から静かに零れゆく言の葉を。


____刑罰、認証。


「あー。スッキリした。」

リンフォンへの妄念は、脳の一部と共に飛び散る。

地獄の亡者の刑罰は、これにて執行された。

薄暗い空間に風が通るようになったかのように、とても清々しい気分だ。

「__”雲穿ち 頂求む 峰に雨 夜の幕間 音の無き天”」

自分の心境というものは、思っているよりも直ぐには考えつかないものだ。

だから、私は歌で心の内を零す。

その歌を詠みながら、夜音は眼前の虚空に手を伸ばす。

”無”から”有”は生まれない。

ならばそれは、元より彼女がソレを持っていたと言う事実を示す理由に他ならない。

「____」

現れたそれは、無骨な刀だった。

兜金の先にある鈴以外は無骨な刀そのものだが、光源の心許ないこの空間においても輝く美しさは目を見張る。

「彼女が見えるようになってから共に感じていたこの刀。

使う事はないと思っていましたが、初見で使わざるを得なくなりましたね。

性能も分からないままぶっつけとか。

__笑えます。」

夜音はヘスの方を見もせずに、天井を向く。

「ギミック鬼ムズ負けイベ上等。

今なら地獄だろうと、斬れます。

いや。

____斬る。」

最初はあるかも分からなかった地を、今は自信を持って力強く踏みしめる。

両の手は柄に、目線は天に。

何も無い夜空に、花を添えるように。

「___断ち切れ___」

斬撃が黒き天にヒビを入れ、完全な地獄に綻びが生まれる。

零を一にする其の剣筋は、しかし全てを覆せない。

一人佇む人影は、哀愁をも漂わせ……

「何を怠けているのやら。

__”断ち切れ”、私はそう言ったのです。」

夜音は呼ぶ。

何時もと同じように。

初めて会った時につけた、ここに居ない彼女の名を。

「貴女に言っているんですよ?

___ツクヨミ___」

ひび割れた天が今度こそ割れ、光が地に注がれる。

天の破片飛び散る中、死装束で夜音と同じ刀を携える”ツクヨミ”は、天から地へと舞い降りて、夜音に抱きとめられる。

「ありがとうございます、ツクヨミ。

私の、大切な……」

夜音はそこまで言って、涙を流しながら地面へと倒れ込む。

倒れる夜音をヘスが何とか抱き留めて、ヘスは夜音の状態を確認する。

「まずいね……」

このままだと、夜音は死ぬ。

憑かれているとは言え、所詮神秘に抵抗の無い一般人。

地獄の概念を壊すほどの代償に耐えられる訳が無い。

しかも銃を自分で頭に撃つなんて。

リンフォンの影響が脳にあると分かった上での合理的な行いだが、それにしても狂っている。

この間にも夜音の呼吸はどんどんと浅く、小さくなっていく。

不味いね、このままだと本当に……

チリン

鈴の音。

ある筈のないその音でヘスは顔を上げると、白髪の女がこちらを見下ろしている事に気付く。

「心配は無用だ。任せよ。」

有無を言わさず女はそう言うと、夜音の顔に手をかざす。

淡い光がその手から零れ、周囲を仄かに照らし初める。

「__先程は聞けなかったけれど。

君は、”ツクヨミ”かい?それとも月読命?」

「すまない、それは言えぬ。

そして重ねて済まないが、恩人殿に失礼を承知で言わせて欲しい。どうか、夜音を私に救わせてくれないだろうか。私と夜音の救い人。」

救う…ねぇ。

この”ツクヨミ”には、どうやら隠し事は通用しないらしい。

「承知したよ。どうか、夜音を救ってあげて。」

「ありがとう。」

直後、ツクヨミは一層強い光を放ち、ヘスは目を細めてその光に耐える。

視界がクリアになった後、残っていたのは地面で寝かされている夜音だけだった。

すぐ様、夜音の容態を確認する。

「……呼吸よし。

脈拍も特に異常なし。」

ヘスは複雑そうに笑うと、夜音を撃った銃を見つめる。

……彼女にはバレてたけど。

地獄から出るには、刑罰の執行が必要なんだよ。

そうすることによって脳に巣食っているリンフォンを消すことが出来る。

刑の執行の条件は自分が満足した罰を与えられる事。

なんだけど、まさか脳に巣食ってたリンフォンの妄念をそのまま銃弾で吹き飛ばすとはね。

これはちょっと予想外だった……

「よっと。」

天から垂れていた1本の糸をヘスは手に掴む。

ヘスが糸を二回引っ張ると、段々と糸が釣り上げられてゆく。

ヘスがふと上を見て、目を輝かせる。

「……今日は月が綺麗だねぇ。」

天に開いた穴を見ながら、ヘスは呟く。

ヘスはこれからの激動の日々を想像し、内心ワクワクしながら地上へと昇っていく。

地獄に、恨めしく這い寄る亡者は居らず。

極楽の糸からは、心底楽しそうな少女の笑い声が地底へと落ちていった。

____


「戻ったよ、カロン。」

「ソイツがそうか。」

「うん。リンフォンの同調者ちゃん、ヨネって名前らしい。」

「不用心だな。ヘスに名を教えるとは。」

「なんだい人を魔女みたいに。

聞いた名前で殺すのは面倒だから余りやりたくない手段だって、前にも言ったじゃないか。」

「面倒なだけだろう。」

「う〜ん、信用無いねぇ。」

「__信用してる。じゃなきゃ名を教えてない。」

真っ直ぐな瞳に射抜かれ、ヘスは少し言葉に詰まると咳払いをして話題を変える。

「コホン。

とにかく、だ。

学会だろうと、この娘は殺させない。

私たちの目的の一つを叶えてくれる鍵だから。

__それに。」

「元々は俺らのミスだ。

その責任は、絶対に取る。」

「あぁ。それがエルデだからね。」

カロンは鼻を鳴らし、リンフォンを手に取って蓋を占める。

地獄はここに閉じられた。

夜音の部屋に月光が差し込み、カロンはその光を見据えて合掌する。

「…前から気になってたんだけど、君の祈りって、誰に向けて祈ってるのさ。神なんて、もう居ないのに。」

カロンは瞳を閉じながら、諭すように落ち着いた口調で返す。

「___祈りは誰かに届かせるものでは無い。

自らの内に定めるものだ。

人が何故願う時に瞳を閉じるのか。

それは自身の内面を見ようとしているからだ。

願いや欲、そういったものが人を動かし、導く。

神が居るか居ないか。それは関係ない。

神が居ても、最後に決断し決めるのは人だ。

だからこそ、乞い願うのはいつだって、未来の自分だと、俺は思う。」

……単純で、清廉で、傲慢。

「君らしい返答で私は好きだよ。」

「そのまま受け取っておく。

……さて、祈りも終わった。帰るぞ。」

ヨネの背中越しに、彼の背中を凝視する。

広くてどこか寂しげで、何年一緒に居ても、その心の内はまだ分からない。

そんな彼を見て、深い息を吐いた。

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