それからどうやって2人で帰宅したのか、正直よく覚えていない。



 「え、おかえり。ずいぶんと早かったんだね。」



なにも知らない父も僕たちの様子を見て、すぐに何かを察したようだ。



 「なにかあったんだね?」



 「……玲衣が、暴力をうけていた。」



僕がそう言うと、父は鋭い目つきに変わる。



 「それに離婚もして、会社も辞めていて……今はどこにいるかわからないって……」



僕のすぐ後ろにいた母がそこまで言って泣き崩れる。


すぐさま父が母の身体を起こし、支えながら家の中に入っていった。


 "……っ、玲衣……"


玄関のドアが閉まる直前、花が好きな母が飾ったであろう棚の上の黒百合がどういうわけかものすごく気になった。


一輪だけ孤独に飾られている様子が、なんとなく玲衣と重なるからだろうか。


 "きっと寂しいよな……"


ドアがパタリという遮断の音を鳴らしたのと同時に、僕の頬には一筋の涙が流れた。



・・・



3人で無言の食事を済ませたあと、僕は自室にこもった。


昼間に電話をした橋本さんの話があまりにも衝撃的な内容だったため、僕もまだ頭の中での処理が追いついていない。


玲衣の恐怖と痛みを想像するだけで、内臓が出てきそうなほどの怒りが込み上げてくる。


いったん深呼吸をして、もう一度思い出す覚悟を決める……そして静かに目を閉じた。


玲衣はあの男から日常的に暴力を振るわれており、事件が起きた日も早朝からいつも通り殴られていたという。


毎回違う理由があったそうだが、その日のきっかけは朝食にあの男の好物であるフルーツを出すのを忘れたからだそうだ。


そんなどうでもいい理由で玲衣を死なせる寸前まで殴り続け、意識を失った玲衣を死んだと勘違いしてしまったあの男は、どこかへ遺棄しようと考えた。


そして、顔から血を流した玲衣を抱えて家を出たところで隣の住民に通報されてしまい、事件に発展したという。


その後、現行犯逮捕されたそいつは玲衣が生きていると知ると泣いて喜び、直前に自分の手で殺しかけた相手である玲衣に、出所するまで待っていてくれと懇願したらしい。


簡単には信じることができない話だ。


その時点で、もう救いようのないクズだとしか言いようがない。


さすがにそれを見かねた弁護士が何日もかけて説得し、離婚届に署名捺印させたという経緯があると聞いた。


驚いたのが、玲衣が仕事を辞めたのはそのときではないということだ。


その男の希望により、結婚して半年後にはすでに会社を退職していた。


そこからすぐに暴力を受けるようになって、玲衣は2年以上もそれに耐え続けていたという。


誰かに言うわけでも逃げ出すわけでもなく、ただじっと毎日毎日家の中にこもってひたすら耐えていた。


それが裁判中に発覚し、その男の弁護士ですら改善の余地はないと判断する。


精神疾患の減刑も考えられたが、その男は暴力を振るったあとも平然と会社に出勤していたことが証明され、そちらも争点にならないと判断されたそうだ。


刑法第204条傷害罪、懲役5年。


それが玲衣の元夫の罪の重さである。


 "……っ!"


僕はもう耐えられないほどの怒りと悲しみと、玲衣を今すぐ抱きしめて、一生離したくないという衝動に駆られる。


こんなことになるのなら、5年前のあの日に無理やり玲衣を奪い去るべきだった。


ロンドンまで連れていって、僕の手の届くところで一生守るべきだった。


 "……どこにいるんだっ!玲衣!"


玲衣の所在について知る人は誰もいない。


裁判と、離婚届を提出するために日本に帰るところまでは橋本さんも聞いたそうだが、その先の行方はわからないと言っていた。


玲衣がそのまま日本にいるのか、それともあの男が自分を見つけられないように違う国へ逃げたのか、僕には見当もつかない。


あのころは玲衣の考えていることなんて手に取るようにわかったはずなのに、時間とは残酷なものだとこの歳になって知る。


5年という歳月が、知らないうちに僕から玲衣の痕跡を綺麗に消してしまった。


探すにも探しようがない。


なにか手がかりはないだろうか。


 "親族だと言って裁判記録を見せてもらうか?"


しかし、それにはかなり時間がかかるだろう。


承諾を得るまでにも日数はかかるし、そこからその裁判の担当弁護士とのアポを取るのにも時間を要する。


なにより、裁判記録を見られたからといって、現在の玲衣の居場所に直接関係があるかもわからない。


そうこうしているうちに玲衣にまたなにかあったらと思うと気が気じゃない。


僕はもう生きていけないとさえ思う。


ベッドに倒れ込み、天井を見上げる。


大きなため息が出た。


 "なんて無力なんだろう"


玲衣の1人も見つけられないなんて、弟失格だ。


失格ついでに、もう弟なんてやめてやると自暴自棄になる。


 "次会えたら……もう知らないからな"


この機会に、もう弟なんて正しいポジションはやめようじゃないか。


最悪な環境だったはずなのに、1人で我慢して耐えて、死にかけてもなお家族にも一切相談せず、自分のことを疎かにし続けた玲衣に、これ以上遠慮する義理はない。


唯一"玲衣の弟"としてよかったところは、玲衣が困ったときに一番近くで見守っても不自然じゃない"家族"だというところだ。


それなのに、その地位さえ与えてもらえないのなら、もう"弟"に用はない。


そんな名ばかりな家族はさっさとやめて、今から全力で見つけに行ってやる。


 "なんのために遺伝子化学を研究してると思ってるんだよ"


なんのために今までこんなに努力してきたと思っているんだ。


 "おまえとの恋愛を成立させるためだよ、ばーか"


今まで死ぬほど大切にしてきたかわいい玲衣を、今度は死んでも離さない。


明日の朝起きたら、両親にも伝えようと心に決める。


僕はもう玲衣の弟はやめる、そして、もし僕が玲衣を見つけたらそのときは玲衣のことがほしいと、そう言うんだ。


 "遠慮はしない、今度こそ奪いに行く"


絶望的な状況に変わりはないが、自分の気持ち次第である程度人生は変わるということも知っている、それなりの大人だ。


玲衣のことになると、僕は狂ったほど本領を発揮できることを久しぶりに思い出す。




*****




———確か、あのときもそうだった。


あの雨の日の事件の後、2ヵ月ぶりにようやく登校できた玲衣にひどいことを言った同級生に食ってかかったことがあったのだ。



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