時計を見ると、ちょうど18時30分を示している。


 "もうこんな時間になっちゃった"


結局、本以外にも気になるものをいろいろ見つけてしまい、また寄り道が多くなってしまった。


モンブランは諦め、今日はこのまま家に帰るほうが良さそうだ。


モールの外に出ると雨が降っていた。


普段の私なら、天気予報なんていちいち見ることもなく、急な雨に対応できる傘なんて持っていない。


天気予報を見なくて済んでいるのは、悠人が毎朝必ず教えてくれるからで、傘なんか持っていなくても、しっかり者の悠人が必ず傘を持っていてくれるからだ。


突然の雨の日は、いつも一緒に帰ることが当たり前だった。


何気ない雨の日に、私のことを大切にしてくれている悠人の優しさに、改めて気づかされる。


 "家に帰ったら、悠人に謝ろう"


反抗期なんて、もうどうでもよく思えてきた。


とにかく、今はこの雨の中、どうやって帰るかが問題だ。


 "この状況で悠人に甘えるわけにはいかないよね"


そう思いながら鞄の中をごそごそ探ると、小さな折り畳み傘が出てきた。


 "そうだ、今日返してもらったんだった"



 『羽瀬さん。これ借りてた傘。返すの遅くなってごめん。この前まじで助かったわ、ありがとな。』



昼休みにクラスメイトの木戸くんから返してもらった傘を、今日の私は幸運にも持っていたのだ。


この雨だと部活終わりの木戸くんはまた困っているだろうな、と考えて、少し笑ってしまう。


 "でも私は助かっちゃったな"


ありがとう、木戸くん、と心の中でささやいた。


どうでもいいことを考えながら、お気に入りの赤い傘を勢いよく開いた。



 『遅くなるときは迎えに行くから連絡しろよ。』



唐突に、悠人の口癖が頭に浮かんだ。


私が頼りなくて何もできないと思っている悠人は、高等部に入って部活を始めて帰りが遅くなった私に、不機嫌そうな声でいつもそう言ってくるのだ。


たまには悠人に頼らなくてもいいということを、証明してみたい。


 "いつまでも頼ってばかりじゃいられないし"


急な雨だったのに、傘を持っていたなんて、きっと驚くだろうな。


 "まぁ…たまたまなんだけど…"


それに、今日の私は映画を断られたのだ。


私との約束に来なかったのは悠人だし、暗くなっても連絡しない私を、少しは心配すればいい。


ちょっとぐらい悠人を困らせたって、バチは当たらないだろう。


映画を断られた腹いせに、反抗期でかわいくない弟を、ほんの少し驚かせたいだけだ。


あわよくば、今日のことを向こうから謝ってくれたら最高だなんて思ってしまう。


そんな悪知恵が働いた私は、悠人の反応を予想して、少し笑った。


悠人は、どんな顔をするだろうか。


さて、ここから家まであと20分ほどだ。


期待を胸に、私は家に向かって歩き出した。



・・・



帰り道の途中に通る公園の前だけが少し暗い。


人通りが全くないわけではないが、雨のせいか、今日は誰もいなかった。


悠人の口癖を思い出し、その公園が急に不気味に感じられる。


 "やっぱり、迎えに来てもらえばよかった…"


自分で立てた作戦とは裏腹に、あっけなく悠人に完敗してしまう。


どんどん怖くなる私は、今さらながら悠人に連絡を入れようと、鞄の中に手を突っ込んでスマートフォンを探す。


10秒ほどかかってようやく見つけたスマートフォンの画面は、真っ暗だ。


 "あ、そうだ、電源切ってたんだ"


考える間もなく慌てて電源を入れると、画面が明るくなり、悠人からのメッセージが届いたことを知らせる表示が現れる。


その文字に安堵し、タップすると、「雨だから迎えに行く」と、悠人らしいぶっきらぼうな文字が届いていた。


私との映画を断ったくせに、こういうところは抜け目がない。


 "反抗期と夜道は別ってことね"


そういうところは、悠人の良いところだと思う。


まだ高校1年生なのに周りのクラスメイトより大人だと感じる部分だ。


つい10分前に悪知恵を働かせていた私とは、大違いだ。


悠人に返信しようと立ち止まり、メッセージを打ち込む。


 "いま渚公園のところ!暗いから電話してもい———……"



 「お嬢さん、こんばんは。」



メッセージを打ち終わる前に、急に背後から気味の悪い声で話しかけられ、恐怖で身体が固まるのを感じる。



 「大丈夫。怖くないよ。良い子だね。良い匂いだ。」



恐ろしくて、声が出ない。



 「後ろ姿だけじゃなくて、お顔もすごく美しいなぁ。」



その男はかすれた声で、私の耳元で吐息混じりの声で、そうささやいた。


 "……っ……悠人……助けて…"


その思いが悠人に届くわけがない。


そのまま公園の木の影に引きずり込まれ、あっけなく私の世界は反転した。


次に、はっきり意識を取り戻したのは、警察の人に上着をかけられたときだった。


目の前でその男は拘束されていて、耳を塞ぎたくなるような奇声を上げて唸っている。


明るいほうに視線を向けると、渚公園の入り口にパトカーが停まっており、雨に反射するその赤い光が、私の恐怖を一層際立たせる。


怖くて怖くてたまらない。


ブーブーブー……


無意識に握りしめたスマートフォンが強く震える。


ブーブーブー……


画面を見なくても分かる。


きっと、悠人だ。


ブーブーブー……


"悠人"と表示されるその文字を見るだけで、固まった心が緩むような感覚がした。


ブーブーブー……



 「もしもし?玲衣?」



その声に安心して一気に力が抜ける。


怖くて涙すら出なかったはずなのに、徐々に目頭が熱くなる。



 「玲衣?」



呼ばれ慣れた私の名前に、その声に、涙が一気に溢れ出す。



 「……悠……人……」



 "怖いよ……悠人……どうしたらいい?"



 「玲衣、どうした?今どこ?」



珍しく焦った悠人の声が、今置かれている絶望的なこの世界から私だけを連れ出してくれるように感じて必死にすがりつく。



 「悠人……たすけて……」



流れ始めた涙は止まることを知らない。



 「……助けてよ……お願い……」



早く悠人に会いたい。


一刻も早く綺麗な酸素を吸いたいと思った。



 「……早く来て……っ……」



空気が薄くて息を吸うことができない。


このままでは間もなく力尽きてしまうのではないかという不安から、焦る気持ちを電話の向こう側にいる悠人に全身全霊でぶつけた。



 「玲衣……ごめんっ……僕、なんてことを……」



目の前から、大きなサイレンの音が響く。


あの男を乗せたパトカーが、出発したのだろう。


 "……吐きそう"


口を押さえた瞬間、私の意識はすうっと遠のいていった。


悠人をちょっとだけ困らせたかっただけ。


たった———それだけのことだったはずなのに。


なのに私は、なんて愚かだったのだろう。


ほんの一瞬の悪意が、一生の後悔へと変わった。


この最悪な出来事のせいで、私は———悠人を、一生、縛り付けてしまうことになる。


そんな未来を、このときの私はまだ、想像すらしていなかった。



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