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「玲衣、元気にしてる?」
真っ暗な部屋の片隅で、私は母からの電話をとった。
ベッドルームの床で小さくなって話す癖は、きっと一生直らないだろうと思う。
「うん。元気。」
「和也さんは今日も仕事?」
「うん。」
「そう……」
1日1日を必死に生きている私は、実の母にさえ気を遣うことができない。
電話をしてることが夫に見つかるとひどく怒られてしまうから、どうでもいい電話はしてほしくないと思ってしまう。
無意識に、親不孝なことを考えている自分に気づく。
「玲衣……もしかして、和也さんとうまくいってないの?」
「……どうして?」
図星を突かれたことに慌ててしまって、会話に変な間ができてしまった。
「どうしてって……結婚してから全然楽しそうじゃないからよ。」
"楽しい?"
そんな感情は、もうとっくに忘れてしまった。
むしろ、あの男と一緒にいてそんな感情になったことはないに等しいと思う。
「それに結婚してもう3年もたつのに、子供も授からないじゃない?」
「っ……やめてよ!」
あんな化け物との子どもを授かるなんて、想像するだけで気持ちが悪くなる。
夫に対してすべてを拒否してしまう私は、もう手遅れなのだ。
最初から壊れた時計で進めてしまった時間は、もう元に戻ってはくれないだろう。
「……本当にうまくいってないの?」
「そんなことない!私たちはうまくいってるから!」
「玲衣……」
「それより悠人の話を聞かせてよ。」
母の電話で唯一楽しみなのは、悠人の話を聞くことだ。
私が行ったこともない知らない街で、まったく違う時間軸を生きている悠人。
そんな悠人だけが、私の唯一の希望で自慢なのだ。
一緒にいない今だって、悠人だけが私の心の支えであることは疑う余地がない事実なのだから。
「悠人はロンドンで自分のしたい研究をさせてもらってるみたいよ。」
「そっか。」
いろいろなことを乗り越えて、ちゃんと頑張っているのだと知ると安心する。
寂しくないと言えば嘘になるけれど、優秀な弟がいて素直に誇らしい気持ちになった。
「実家にはちょくちょく帰ってきたりするの?」
無性に悠人が恋しくなり、思わずそんなことを口走ってしまう。
「全然よ。玲衣が結婚のあいさつに来たときが最後じゃなかったかしら?本当に姉弟そろって親不孝者なんだから。」
"姉弟……"
今はむしろその言葉がしっくり来てしまうことに、時の流れを感じる。
「あなたこそ、悠人とは連絡を取ったりしてないの?」
「しないよ。お互い忙しいし。」
本当は何度も電話をかけてしまいそうになった。
私に暴力を振るい、号泣することで体力を消耗してしまうのか、毎回死んだように寝入る夫。
その横で天井を見上げながら、私は絶望する。
そんなとき、どうしても悠人を思い浮かべてしまうのだ。
悠人は私を抱きしめてくれたのに、頭を撫でてくれたのに、笑いかけてくれたのに、夫はどうして私を殴るのだろう。
"私がいけないの?"
確かめたい。
その答えを悠人に教えてもらいたい。
"だけどもし悠人にまで否定をされてしまったら?"
それを考えると、怖くて連絡なんてできやしない。
悠人に拒否されてしまうと、私はもう生きていけなくなってしまう。
だから、連絡するのをやめ、必死に考え方を変えた。
夫は別の生き物だから、こんなにひどいことをするのだと、騙し騙し今日までやってきた。
「あんなに仲が良かったのに……あなたの結婚がよっぽど気に食わなかったのね。」
「そんなんじゃないよ。」
悠人はきっと私に愛想を尽かした。
20年以上も自分を縛り付けてきた"姉"が、つらいという曖昧な理由で責任放棄をしたからだ。
自分から始めたくせに、さっさと"姉弟愛"から解放されて結婚する道を選んだ私にきっと絶望した。
「環境が変われば人も変わるし、今は本当に忙しくしてるだけだから。」
「そう……」
悠人を解放するためだったとはいえ、私は最低なことをした。
今の生活はその報いなのだ。
「ただいま〜、玲衣〜」
夫が帰ってきてしまった。
慌ててスマートフォンの画面を見ると、時間は23時を過ぎている。
私はもう寝ているべき時間だ。
「……ごめん、もう切るね。和也さんが帰ってきたから……じゃあね。」
「え……ねぇちょっと……玲———……」
母はまだ話していたけれど、起きていたことがバレたらまた殴られるかもしれない。
一方的に電話を切ると、すかさずベッドに入ってあたかも寝ていたように振る舞う。
口元まで掛け布団を被り、息を潜めて夫の様子をうかがった。
「もう寝てるかな〜玲衣〜」
すこぶる機嫌がいい様子からすると、後輩と飲みに行っていたのだろう。
自分のことを讃えてくれる後輩との飲み会に行った日は、いつも驚くほど明るい様子で帰ってくるのだ。
ガチャッと寝室のドアが開く音がする。
「玲衣〜」
「……あ……おかえりなさい。」
寝ていたふりもお手のものだ。
「ただいま〜ちゃんと待ってて偉いね。シャワー浴びてくる。先に寝てていいからね。」
「はい。ありがとうございます。」
「ん。おやすみ。」
お酒の匂いを漂わせ、私に顔を近づけてくる。
仕方なく"それ"に応えることにした。
一方的な接吻は、大袈裟な音を立てている。
しかし、それだけで寝かせてもらえるなら文句はない。
夫が寝室から出て行くのを確認し、静かに目を閉じた。
"今日も無事に終わる……"
毎日果てしなく疲れてしまう私は、ベッドに入るといつもすぐに意識が遠のく。
今日は母と電話をしたせいか、夢の中でも悠人のことを考えてしまうだろう。
まだ幼かったあのころの遠い日の記憶を、誰にも気づかれない夢の中でひっそりと思い出す———
*****
私はまだ16歳で、無知で呑気な子供だ。
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