玲衣が眠ってから、どれくらいの時間が経っただろう。


1階から玄関の開く音がして、それと同時に慌ただしい足音が聞こえてくる。


きっと、母さんが始発で帰ってきたのだろう。


朝はいつも忙しく、母さんの帰りが遅くなることも珍しくない。


時計を見ると、すでに朝の8時43分を指していた。


一直線にこの部屋へ向かってくる足音が、どんどん大きくなる。



 「玲衣!!」



 「しっ。玲衣が起きる。」



慌てて小声でそう伝えると、母さんはすぐに両手で自分の口を覆った。



 「さっきやっと寝入ったところなんだ。すぐ行くから、リビングで待ってて。」



 「分かった。」



母さんが部屋を出て行くのを確認した後、僕はもう一度玲衣のほうに視線を向けた。


 "すぐ戻ってくるから"


心の中でそう呟き、つないでいた手を慎重にほどく。


足音を立てないように、できるだけ静かに部屋を後にした。


リビングへ向かう途中、階段の手すりに触れながら歩く自分の手が、少し震えていることに気づいた。


心配や焦りではなく、きっと無意識に込み上げてくる恐怖のせいだ。


玲衣の眠る顔を見ているときは、守らなきゃという気持ちだけが先に立っていたけれど、離れると急に現実が押し寄せてくる。


思い出すだけで、胸の奥がざわついた。


すぐに玲衣のもとに戻りたいという気持ちをかき消して、母さんの元へと向かう。


ようやくリビングへ降りると、母さんが不安げな表情で静かに待っている姿が目に入る。



 「おかえり。」



 「……ただいま。」



ソファに座る母さんの前に、僕も静かに腰を下ろす。


目の前に座る母さんを見ると、どうしても言葉が詰まってしまう。



 「……何か飲む?」



 「大丈夫よ。それより、その……昨日のこと……」



母さんの目には、すでに涙が溜まっていた。


その姿を目の当たりにして、僕は改めて、昨日自分がしてしまったことの重大さを自覚する。



 「母さん……ほんと、ごめん……」



心臓の音が、体内を通って、直接耳に届く感覚が強くなっていく。



 「なんで悠人が謝るのよ。」



 「それは……」



母さんの涙は、僕の胸をさらに締めつける。



 「私こそごめんなさい。全部任せっきりで……悠人も怖かったよね?」



 「僕は別に……」



 「ありがとうね。」



全部僕のせいで起きたことだと知ったら、母さんはどう思うだろう。


きっと、もっと涙が止まらなくなるに違いない。


それが怖くて、僕はそのことを口に出すことができなかった。



 「昨日のことだけど……」



罪悪感で押し潰されそうになる気持ちを抑え、冷静に話すことに集中する。


昨夜警察官に説明された内容を、できるだけ正確に母さんに伝えた。



 「今言ったことが、昨日あったことのすべて。」



話している間、母さんはずっと静かに泣いていた。


決して声をあげて泣くことなく、ただ涙をこぼしている。



 「……玲衣の様子はどう……?」



 「……さすがに、悪夢を見るくらいにはショックを受けてるみたいだよ。」



 「……そう……」



玲衣が感じた恐怖は、僕たちには想像もできないほど深いものだっただろう。


それを考えるだけで、男の僕でも吐き気がする。


母さんも、きっと同じ思いを抱えているはずだ。


次の言葉を探しながらも、何も言えずに黙り込んでしまう。



 「とにかく、しばらくは学校を休んだほうがいいと思う。少なくとも……顔の傷が消えるまでは。」



僕の言葉に、母さんはもう一度両手で顔を覆った。



 「……そうね。先生には私から連絡しておくわ。」



 「それから、玲衣が休む理由が噂にならないように、先生には口止めしておいたほうがいいと思う。」



玲衣は決して暴行されたわけではない。


だから、あくまで誤解を招かないように気をつける必要がある。


それだけは絶対に避けたかった。



 「わかった。先生には充分に気をつけるよう、しっかり伝えておくわ。」



普段はしっかり者の母さんだが、今朝帰ってきてからの様子は、明らかにいつもと違う。


学校に連絡を入れるだけで精一杯なのだろう。


今の母さんに、玲衣の心までケアをする余裕はきっとない。


だから、僕が支えなければならない。


玲衣がこれ以上苦しむことがないように。


その一心で、母さんに念を押したのだ。



 「それから、今日は僕も休むよ。」



 「どうして? 今日は私がいるから大丈夫よ。さっき、仕事を休むって連絡入れたから。」



母さんは力なく微笑んだ。



 「今日は、あの撮影の日だよね? 前から大事な仕事があるって言ってたし、昨日もそれで名古屋まで行ってたんだろ? こっちは大丈夫だから、仕事に行って。」



 「……でも……」



 「玲衣と約束したんだ。ずっとそばにいるって。」



母さんの言葉を遮って、僕はそう言った。



 「それに、目を覚ましたときに、ちゃんと玲衣のそばにいたいんだ。」



・・・



玲衣の顔にかかっていた髪を、指でそっと払う。


柔らかくて細い髪は、とても触り心地がいい。


寝顔を見ていると、こちらまで眠くなってくる。


不意に襲ってきた睡魔に抗えず、僕はベッドサイドに腰を下ろし、腕を組んだ。


もう一度玲衣のほうに目を向けると、変わらず穏やかに眠る姿が見える。


それを確認して安心した僕は、玲衣の眠るベッドにもたれかかりながら、徐々に意識を手放していった。



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