「……もしもし。羽瀬玲衣さんのご家族の方でしょうか。先ほど、玲衣さんが———……」



電話の向こうから聞こえた警察官の声に導かれるまま、僕はすぐに病院へ向かった。


案内された個室の隅に置かれたベッドの上で、玲衣は静かに座っていた。


俯いたままの玲衣の顔には、ところどころ傷がある。


頬には赤く腫れたあざ、そして口の端は少し切れていた。


警察官から手渡された制服は、雨と土でドロドロに汚れている。


顔を上げようとしない玲衣の弱々しい姿を見ると、胸が苦しくてたまらない。


急いで彼女の元へ駆け寄り、強く抱きしめた。



 「玲衣……ごめんな。」



そう言うと、玲衣はポロポロと涙を流し始めた。



 「……もう帰りたい……」



 「分かった。」



不安そうな玲衣のそばを離れるのは心苦しかったが、彼女の意思を警察官に伝えに行く。



 「少しだけ待ってて。話してくる。」



心は動揺しているのに、頭は妙に冷静だった。


玲衣を守れるのは、僕しかいない。


 "絶対に"


そう信じていたからかもしれない。



 「すみません。もう帰ってもいいですか?」



近くにいた警察官にそう伝える。



 「そうですね。お姉さん、かなり参っている様子ですし、身体に問題がなければ今日はもう帰って大丈夫ですよ。ご自宅までお送りしましょうか?」



警察が家まで来たと知れたら、きっと噂になる。


あることないこと言われて、玲衣がもっと傷つくかもしれない。


そう思った僕は、タクシーで帰ることに決めた。



 「大丈夫です。タクシーを呼んでいただければ、それで帰ります。」



 「分かりました。では状況のご説明だけ。お母様にご連絡したところ、現在名古屋にいらっしゃるとのことです。すぐにこちらに向かうそうですが、それまでの間、弟さんにご説明してもよろしいですか?」



 「……はい。」



 "説明って、何を"


僕のせいで今日起きたことを、どんな顔をして聞けばいい?



 「ではさっそく。今日、玲衣さんは———……」



言葉を聞いた瞬間、世界が凍りついたようだった。


警察官によると、最近、渚公園周辺で不審者の目撃情報が相次いでいたという。


そのため、警官が巡回していたところ、100mほど先で傘をさして歩く玲衣の姿を確認した。


急いで駆け寄ろうとしたその瞬間、公園の木陰に隠れていた男が玲衣を引きずり込んだそうだ。


つまり、間一髪でその男は取り押さえられた。


幸いにも、玲衣は"何もされなかった"。


その事実に、ほんの少しだけ安堵する。


ただ———"身体"は無事でも、"心"はどうだろうか。


暗く冷たい雨の中、見知らぬ男に引きずり込まれ、顔を殴られた。


恐怖以外の何ものでもない。



 「しばらくはご家族の誰かが一緒にいてあげてください。」



 「……はい。」



言われなくても、そのつもりだった。


僕にできることなんて、たった一つしかない。


 "ずっと、玲衣のそばにいる"


たったそれだけのことなのに、僕にはそれしかできない。



病室に戻ると、玲衣の隣に静かに腰を下ろす。


僕たちに、言葉は要らなかった。


黙って玲衣の手を取りそっと繋ぐと、玲衣の手は、小刻みに震えていた。


その震えが、僕の心臓をぎゅっと締めつける。


不安を振り払うように、玲衣の手を強く握りしめた。



 「羽瀬さん、タクシーが着きました。」



 「玲衣、行こう。」



玲衣は小さく頷き、僕に手を引かれてゆっくりと立ち上がった。


病室から出る間も、タクシーに乗り込む瞬間も、ずっと手を繋いだままだった。


きっと周囲の人には、姉を気遣う弟に見えただろう。


でも———それは違う。


僕が玲衣の手を離せないのは、僕自身が怖いからだ。


今日、僕は玲衣への想いをこれ以上大きくしないために、映画の約束を断った。


ただ、それだけの理由で。


そのせいで、玲衣はこんな目に遭った。


 "もし玲衣が、それに気づいたら?"


愚かな僕を、軽蔑するかもしれない。


きっと、憐れむかもしれない。


そう思うと、胸が張り裂けそうになる。


怖くてたまらない。


その恐怖を打ち消すように、玲衣の手をさらに強く握った。


警察官に軽く会釈して、僕たちはタクシーに乗り込む。



 「横浜市上田町まで、お願いします。」



エンジン音が響く車内。


動き出した車とは対照的に、僕たちの間には沈黙が流れていた。


窓の外に目を向けると、LEDでライトアップされた満開の桜が不気味に揺れている———春なのに、こんなにも冷たい。


その横で、声を押し殺すようなすすり泣きが聞こえた。


玲衣の手がまた震えている。


僕は、さらに強くその手を握った。


それでも震えは止まらない。


強く握れば握るほど、玲衣の小さな手はますます震える。


怖くて、もう見ていられなかった。


目を逸らし、窓の外へと視線を戻す。



 「大丈夫だよ。僕が、そばにいる。」



そう言っても、震えは止まらなかった。


やがて、僕はようやく気づいた。


———震えていたのは、玲衣の手じゃない。


震えていたのは、"僕の手"だった。


怖かったのは、玲衣じゃない。


"僕自身"だったんだ。



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