P.12 Episode 12:非情の命令
February 2nd, 2005
新月
Al Anbar Province, IRAQ
武装勢力アジト「バビロン」
「健太ァァァァッ!」
倉本の絶叫が、崩壊した建物の残骸に虚しく響き渡った。自爆テロがもたらした粉塵がゆっくりと晴れていく中、そこに広がっていたのは、抉り取られた床と、その向こうに広がる奈落のような闇だけだった。中村の姿は、どこにもない。
「野郎……! よくも健太を!」
倉本は、怒りと悲しみに我を忘れ、瓦礫の穴へと飛び込もうとする。だが、その身体を、風間と、駆けつけたSEALsのハンマーが、両側から力強く押さえつけた。
「落ち着け、倉本! 今行っても、二次被害に遭うだけだ!」
「離せ! 健太が、健太がまだ下にいるんだぞ!」
風間は、暴れる倉本をハンマーに任せると、自らは崩れた床の縁に膝をつき、懐中電灯の光で、暗い階下を照らした。瓦礫の山。そして、その下から微かに見える、見慣れた戦闘服の切れ端。
(……生きている)
風間は、確信した。中村健太という男は、これしきのことで死ぬ男ではない。
「ハンマー、部下を半分貸せ。ここから降下し、アルファ・ツー(中村)の捜索救助(サーチ・アンド・レスキュー)を開始する。倉本、お前は人質を連れて、残りの部隊と地上で退路を確保しろ!」
風間の声は、指揮官としての冷静さを取り戻していた。だが、その瞳の奥では、弟同然の部下を案じる、熱い炎が燃えていた。
絶望的な状況の中で、日米の精鋭たちが、再び一つの目的のために動き出そうとした、その時だった。
風間の胸ポケットで、衛星通信機が、電子音を鳴らした。ディスプレイには「統合幕僚会議」の文字。東京からの、最高優先度のコールだった。
風間は、胸騒ぎを覚えながら、通話ボタンを押した。
「……こちら、風間。作戦は成功。人質を確保。ただし、当方に損害一名。中村二尉が行方不明。これより、捜索救助作戦に移行する」
ヘッドセットの向こう側から聞こえてきたのは、労いの言葉ではなかった。あの、市ヶ谷の会議室にいた官僚の、体温を感じさせない、冷たい声だった。
『……聞き間違いかね、風間三佐。作戦は「成功」したと言ったな。人質は、無事なんだな』
「……はい。ですが、中村二尉が」
『ならば、問題ない』官僚は、風間の言葉を、無慈悲に遮った。『君の任務は、あくまで人質として指定された民間人一名を救出することだ。その任務は、完了した。直ちに、人質と共に、予定通りポイント・ブラボーより離脱せよ』
風間の全身の血が、一瞬で凍りついた。
「……何をおっしゃっているんですか。部下が、まだ、瓦礫の下にいるんです。見捨てることなど…!」
『見捨てるのではない。リスク管理だ』声は、さらに冷たさを増した。『もし、その中村二尉が、敵の捕虜にでもなってみろ。そうなれば、事態は、ただの邦人救出作戦から、自衛官の救出作戦へと、全く性質の違うものになる。世論が、マスコミが、そして野党が、何と我々を非難するか。……国家の体面が、地に堕ちるのだ。君の部下、一人の命と、国家の威信。どちらが重いか、君にも分かるだろう』
風間は、言葉を失った。これが、国家の論理。これが、彼が命を懸けて仕えてきた、祖国の、本当の姿。天秤にかけられたのは、共に死線を越えてきた、かけがえのない部下の命と、顔の見えない政治家たちの、ちっぽけな保身。
「……ふざけるな……」
風間の唇から、か細い、だが、底知れない怒りを込めた声が漏れた。
「彼もまた、貴方がたが守るべき、日本の国民だぞ!」
『命令だ、風間三佐』
官僚は、それだけを告げると、一方的に通信を切った。
風間は、衛星通信機を握りしめたまま、その場に立ち尽くした。背後では、倉本が、そしてアルファ分隊の全員が、期待と不安の入り混じった目で、彼を見つめている。
(……どうする)
脳裏を、サマワの、あの橋での光景がよぎる。あの時は、俺は、自分の判断で、ルールを破った。そして、仲間を守った。だが、今回は。これは、あの時とは比較にならない、重く、そして、残酷な、国家そのものからの「命令」だ。
風間は、ゆっくりと、倉本の方へ向き直った。
その顔から、全ての感情が、抜け落ちていた。
「……倉本」
その声は、まるで砂を噛むかのように、かすれていた。
「……行くぞ」
「……え?」
「……撤収だ。人質を連れて、ここを離れる」
「何、言ってんだよ……隊長……?」倉本の顔から、血の気が引いていく。「健太は? 健太は、どうすんだよ!?」
「……命令だ」
「命令だぁ!? 誰の命令だ! 東京の、あのクソ野郎どもの命令か! あんた、本気で健太を見捨てるって言うのか!」
倉本が、風間の胸ぐらに掴みかかった。
だが、風間は、抵抗しなかった。
ただ、その、死んだ魚のような目で、倉本を見つめ返した。
「……俺を、撃つか」
「……ッ!」
「撃てないのなら、命令に従え。……これは、隊長命令だ」
倉本の拳が、わなわなと震え、そして、力なく、だらりと下ろされた。彼の瞳から、大粒の涙が、砂埃に汚れた頬を伝って、流れ落ちた。
アルファ分隊は、生き地獄の中を、撤退していった。
倉本は、他の隊員に両脇を抱えられ、赤ん坊のように泣きじゃくりながら、引きずられていく。
風間は、一度だけ、振り返った。
中村が消えた、暗い、暗い穴を。
まるで、己の魂が、そこに埋葬されたかのように。
(……すまない、健太)
彼の心の中の、何かが、音を立てて、完全に死んだ。
桜は、国家の体面という、冷たい風によって、無慈悲に、散らされたのだ。
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