21話 同居生活

「おはよう」


「おはようございます」


「なんで敬語?」


 同居生活の始まりはまず挨拶から始まる。


 俺の経験上、朝起きてトイレに向かう際は、必ず廊下で沙鳥と顔を合わせるというミステリーが発生するため、いかに動揺せずに挨拶できるかが重要だ。


 もしここで沙鳥の機嫌を損ねてしまったら、のちのち大変な目に遭うからな。


「ほら、寝起きって頭がスッキリしてるだろ?」


「全然眠い……」


「沙鳥が早起きすぎるんだよ。だってまだ五時だぞ? いくら何でも早すぎだろ」


「秋空だって早い」


「俺はまあ……諸事情で早起きしてるだけだから」


 諸事情とは島からの脱出を目論んでいることだが、そんなことを正直に話せるはずもなく、適当に誤魔化すことしかできなかった。


「………………」


 沙鳥は眠そうにあくびをすると、パジャマ裾で目元を拭って、


「顔洗ってくる」


「どうぞ」


「見ないでね」


「他人が顔を洗ってるところを覗く趣味はないよ」


「……私はあるけど」


「ん? 今何か言った?」


「……なんでもない」


 ポツリと呟くと、沙鳥はスタスタと洗面所に向かっていった。

 

 そんなこんなで俺の朝は常に沙鳥との会話から始まる。彼女は少し眠そうながらも、普段とあまり変わらない印象だ。


 元々テンションが高くない分、昼間とのギャップが少ないのだろう。

 



 一方、叶愛はまるで別人だった。


「……おはよう、ございます」


 ――三時間後。


 リビングのテーブルで絵を描いていると、眠たげな様子でやってきた叶愛。


 彼女の声はか細く、テンションは明らかに低かった。普段の明るさやあざとさはどこへいったのやら……。


 寝起きだけはまるで電池が切れたおもちゃのようにおとなしいのだ。


「コーヒー、淹れるか?」


 俺が声をかけると、彼女は力なく頷いてソファに顔を埋めた。「せーんぱーいこれ以上はダメですよぉ」と寝言のような言葉まで発している。


 もはや起きてるのか二度寝しているのか分からなかった。

 普段からこれくらい大人しかったら楽なんだけどな。


 しかしそれはそれで物足りない気もするので、すっかり俺も叶愛の毒に侵されているんだと思う。


 そんなわけで最近は毎朝叶愛にコーヒーを淹れるのが日課となっている。



 最後に真昼に関してだが、まあ言うまでもなくなかなか起きない。

 沙鳥と叶愛は同じ部屋――以前両親が使っていた寝室で寝ているが、真昼に関しては一人部屋のため、寝るのも起きるのも全て真昼の気分次第。


 彼女の部屋の扉が午前中に開くことはまずありえないのだ。完全に開かずの扉である。


 まあそれ自体は別にいい。時間を気にせず、ぐっすり眠るのは夏休みの醍醐味だからな。十分に堪能してほしいところだ。


 しかし世の中には不思議なこともあるようで……。


 普段はあれほど起きない真昼だが、俺がフェリー乗り場に向かう時だけは姿を現すのだ。それも一度ではなく毎回。


 その度に「お兄ちゃんが悪いんですよ」と連呼して洗脳してくるのだ。

 どんなに朝早くだろうが、日が昇る前だろうが関係ない。朝が弱いはずなのに、土壇場で強さを発揮してしまうあたりさすが真昼。


 一体どんな仕組みなのか、気になって仕方がなかったが、怖くて聞くことなどできるはずもなく……謎は迷宮入りである。

 

 ――そして俺が目覚めてから七時間後。


「お兄ちゃん、おはようございます」


 ようやく真昼がリビングに降りてきた。

 ピンク色のパジャマに身を包み、くるんと髪が跳ねている姿はあまりにも無防備で、贔屓目に見ても愛らしかった。


 寝癖を気にして頭を抑えているところなんて、年相応でいつまでも見ていられる。監禁が絡まなければ真昼は基本的にかわいい妹なのだ。


 できれば午前中に起きてほしいけど。



 朝はともかく、昼ごはんに関しては四人揃って食べるというルールになっている。


 隣には真昼、正面には沙鳥、その隣には叶愛という配置で食卓を囲む俺たち。


 基本的には平和だが、共同生活をしている以上、人それぞれ考え方の違いもあるようで、


「叶愛さん、サラダのトマトだけ残すのやめてくださいって何度言ったら分かるんですか?」


「だってぇ、トマトって加熱しないと美味しくないしぃ」


「甘くて美味しいじゃないですか!」


「真昼ちゃんが甘党すぎるんですよぉ。そもそも、オムライスにチョコ入れるなんておかしいです!」


 今日の献立はオムライスとサラダである。


 まともな料理経験があるのは真昼だけなので、毎日の食事は彼女に一任されているわけだが、どうしても叶愛はチョコレートを入れたオムライス――通称チョコライスが気に食わないらしい。


「……美味しいのに」


「先輩の舌が壊れてるんですよ」


 俺が呟くと、不満そうなジト目を向けられる。


「おかしいのは叶愛さんです。この料理は私たち兄妹の愛の結晶なんですよ!」


 ドンと両手をテーブルについて真昼が叫ぶ。


 ――チョコライス。


 元はといえば、俺が卵焼きにチョコを入れたことをきっかけとして考案されたメニューである。

 といっても中身は普通のチキンライスで、卵も普通。


 一つ違う点があるとすればそれは表面に掛かっているソースだろう。

 ケチャップの中に牛乳としょうゆ、そして板チョコを一枚ぶち込んだ特製のソースである。


 見た目は完全にデミグラスソースだが、香りは圧倒的にチョコ。目を閉じたらスイーツだと勘違いしてしまうほどの甘い香りである。


 甘党の俺たち兄妹にとってはこの上ないご馳走だった。


「チョコのおかげでコクが出てるじゃん」


 俺が呟くと、叶愛は口を尖らせながら、


「コクよりも甘さの方が強いんですよ」


「それが隠し味でアクセントになっていいんじゃん」


「全然隠れてません! まんまチョコですよ。ケチャップソースじゃなくてチョコレートソースですこれは!」


「……確かにチョコソースだね」


 これまで黙っていた沙鳥がソースをペロリと人舐めして呟いた。

 叶愛は味方ができて嬉しかったのか、表情がパッと明るくなって、


「さすが沙鳥さんです! この味覚が狂った兄妹にもっと言ってやってください!」


「……私はこういうのも好きだけど」


「沙鳥さぁぁん」


「ふんっ、おかしいのはトマトを残す叶愛さんなんです」


 真昼は勝ち誇ったようにそう言うと、フォークを持った手を伸ばして叶愛の皿からトマトを奪い去る。


 そしてぺろりと平らげると、堂々と宣言するように言い放った。


「甘いものが正義です!」


 その言葉に唖然とする叶愛。


 しばらく無言で俺たち兄妹を交互に見やると、微妙そうな表情で尋ねてきた。


「先輩、タバスコあります?」


「ないよ。買っても真昼が捨てちゃうからさ」


「酷いですよぉ」


 仕方がないだろう。

 七味とタバスコと唐辛子は、我が家では危険物扱いされているのだから。

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