【完結】闇魔女は六畳一間の平穏が欲しいだけ!
もちもちしっぽ
第一章 闇魔女はスパルタ教師に関われる!?
第一話 エファリュー、夜逃げする
酒場の灯りも落とされて、酔漢たちの調子っぱずれな歌が帰路を行く。
屋根から見下ろしていたエファリューは、街路に満ちた酒の香りに、鼻をひくひくさせた。
つんと少し上向いた妖精じみた鼻先は、夜気に赤く染まっている。こんな寒気の深い夜は、安酒かっくらってブランケットにくるまっていたい。だがエファリューの懐には、
零れ落ちんばかりのミモザの花に似た、腰まで隠れるふわふわした髪を引っ詰めて、外套の襟を掻き合わせると、彼女はピィーっと指笛を吹いた。
城郭都市ファン・ネルの宵闇を切り裂いて、指笛は響き渡り、山の麓の洞穴まで木霊した。眠りを妨げられた空色の子竜が這い出して、笛の音に導かれ、ファン・ネルの上空に飛来した。
「来てくれてありがとう。今夜はうんと遠くまで、飛んでちょうだい」
お辞儀をするように頭を垂れたドラゴンの首に掴まり、エファリューはその背に飛び乗った。少女のように小柄な体は、子竜にとってちっとも負担ではないようだ。
エファリューの指笛と巻き起こった風、飛来した子竜に警戒を強めた衛士たちが詰め所から飛び出してくる。
城壁からは容赦なくエファリューめがけて、拘束縄の括られた矢が放たれる。
「きゃー、助けてー!
……なぁんて言っても、わたしを助けてくれる人はいないんで! 面倒でも、自分の身は自分で守らなきゃね!」
矢面に手を翳し、大きな円をぐるりと描く。中空に、夜よりも濃い黒々とした闇が口を開く。エファリューに穴を穿ってでも捕らえんと迫る矢は、一矢残らず、その中へ吸い込まれてしまった。
子竜の背で、高らかに笑いながら、エファリューはファン・ネルの街に手を振った。
「それでは、皆様。ごめんあそばせ」
優雅に、そして悪戯めいた目配せで彼女は夜空に飛び立った。
衛士たちの嘆きが街と一緒に遠ざかる。エファリューは陽気に鼻歌なんか歌って、瞬く間に星々のしじまの向こうに消えた。
※ ※ ※
街にはなんの未練もない。
両親? 故郷はとうになくしたからどうでもいい。
師匠? 亡くなって久しい、もうたまにしか思い出さない。
恋人? 友人? そんな煩わしいものいらない。
残してきたものと言えば、滞納した家賃と踏み倒し続けたツケだ。
エファリューは魔女だ。呪い……かける方も解く方も同等に、呪詛術を得意としている。他にも薬を作るのが得意で、一丁前に店を持っているくらいだ。
ところがこの魔女、性根が非常に怠惰なので、気が向いた時しか仕事をしない。商売っ気もまるでなくて、商売敵が店前で呼び込みをしようが全く張り合おうとしない。
楽して暮らしたいが性分で、さらにたちの悪いのが、好きな言葉が「一攫千金」なところである。少ない元手で大儲けを狙い、たいした実入りもないくせに、売り上げはすぐに賭けに使った。
そんなわけで金が貯まるはずもなく、家賃滞納、各方面へのツケは膨れ上がり、とうとう首が回らなくなって、夜逃げだ。
真ん丸の、ちょっと水色がかって冴えた月に、エファリューは祈りを捧げる。
「ああ! なんの見返りも求めず、ただただわたしをひたすら甘やかしてくれて、ただただ息をしているだけで許される生活を与えてくれる、都合のいいお貴族様をお恵みください!」
子竜がちゃんちゃら可笑しいと笑うように、ぷしゅんっとくしゃみをした。その拍子に、大きく体を揺さぶられる。
「おぉっ!?」
くしゃみの反動で、エファリューはぽろりと空に投げ出された。
「おぉおおおおおお!?」
とんでもなく冷たい空気を切り裂きながら、彗星の如く、エファリューは落下した。
子竜が追い縋るが、エファリューは平気だと微笑んで手を振る。驚いたのはほんの一瞬、余裕たっぷりの顔は経験に上乗せされたものだ。
その姿はまるで、黒い風船を手に宙にぷかぷか浮いているようだ。
「こんな飛び方も、なかなか楽しいじゃない」
心配そうに寄ってきた子竜に、ここまでの礼を言って、弾力のある頬にキスをした。
「じゃあね。あなたが立派な大人になったら、いつか鱗を貰いに行くわ」
竜の鱗は、鍛冶屋に持っていくと高く売れるし、呪術の道具にも薬の材料にもなる。これに関してエファリューは労を惜しむつもりはない。
子竜は不満そうに低く唸った。鱗を剥がれるのも不満そうだが、それ以上に別れを惜しんでいるようでもある。親が狩られ、一人ぼっちの雛竜だった時に怪我を治してくれたエファリューは、子竜にとって家族と同じだ。
「冗談よ。友達も家族もいらないけれど……、そうね。あなただけは特別だったわ。ほとぼりが覚めたら、きっと会いに来るから。さあ、気をつけて帰りなさい」
エファリューが風に流され、国境を越えても、子竜はそばを離れようとしなかった。参ったなぁと思っていたら、突然体がかくりと重力に引っ張られた。
ふと気付くと、東の空が白み始めていて、それに掻き消されるように、エファリューの闇が薄くなったのだ。矢尻がするりと抜けていく。
すると、風船が割れたかのように、エファリューの体は再び急降下を始めた。
眼下には、緑の丘が見渡せた。いくつも尖塔を持った小さな城がある。遠目には、白く光を跳ね返す神殿のような建物も見えた。
エファリューは城の中庭に向かって、急速に落下していた。
この時、エファリューは自分のことよりも、追い縋ってくる子竜の安全を優先した。もし、見張りの目についたりしたら、子竜は狩られてしまうと、胸がざわざわしたのだ。
その感情を、面倒くさいとは思わなかった。
指笛が響き渡る。
──大丈夫だから、お帰り。
思念が込められた指笛は、一種の呪いだ。
子竜は心と体が引き裂かれる思いで、くるりと旋回する。短い尾をしなだらせ、きゅっと一声鳴くと、ファン・ネルの方角へ泣く泣く飛び去った。
それを見てほっとする暇もなく、エファリューは自分の身も守らなければならない。急いで闇を呼び寄せる。
ところが、いつもの要領で手を掻いても、困ったことに全く闇が生まれない。いくら朝陽が昇りつつあるからといって、こんなことは今までになかったことだ。
はっとして辺りを見回し、彼女はここがどこか悟った。
遠くに見えた神殿──あれは隣国クリスティアの国教の総本山、
光の加護に満ち満ちたこの地において、エファリューの魔力は無力だった。
なすすべなく、空を切って小さな体が落ちていく。髪紐も弾け飛んで、ミモザの髪がふわりと風に広がった。
「──!!」
男の声がしたが、分厚い空気の膜に覆われて、言葉までは聞き取れなかった。
身を切るような冷たさから切り離され、春風の穏やかさに体を包まれたエファリューは、ゆっくりと羽根のように舞い降りた。
その背に、しっかりと手を添えて抱き止めてくれたのは、なかなか……いや、かなり整った容姿の男性だった。ものぐさなエファリューでさえ、ちょっとしおらしくなって、髪の乱れを整えてしまったほどだ。
彼はエファリューの葡萄色の双眸を目にするや、端正な顔に驚愕を露わにした。
「エメラダ様!?」
彼は銀糸のような髪を振り乱す。驚きを吐き出すような切羽詰まった問いかけだったが、声自体はひどく潜められて、小さなものだった。
エファリューが腕の中できょとんとしていると、青年は首を振って、深呼吸した。
「いえ、違いますね。わかっています。たいへん失礼いたしました」
彼はエファリューをそっと地に下ろすと、流れるように美しい一礼をして名乗った。
「わたしはアルクェスと申します。貴女は……随分と変わった所からいらっしゃったようですが……」
空を見上げる彼の瞳もまた、澄んだ空色だ。
エファリューは一瞬のうちに彼を値踏みした。
神官が身につける長衣を着ているが、格式高そうな前飾りが垂れている。しゃんとした立ち姿と相まって必要以上に身なりがよく見えた。
この城が誰のものであるのかエファリューにはわからないが、明け方に中庭を自由に歩ける者など限られているはずだ。城の見回りをしているにしては、軽装だ。ということは、この城において相当に地位の高い人物――つまり、エファリューひとりくらい容易に養える財はあると見込んで、面倒くさいが猫を被ることにした。
「わたしはエファリューと申します。隣国のスフェーンから、あてのない旅をしていたところ、山中で追い剥ぎにあって……。決死の覚悟で飛行術にて、逃げて参ったのです……」
こういう時、エファリューのくりくり大きい黒目がちの瞳と、甘えたな声は大いに活躍する。同情を引くのにもってこいなのだ。
アルクェスは心から気遣わし気な色を浮かべて、近場にあった腰掛けにハンカチを引くと、エファリューをそこに座らせた。
「お怪我はありませんか?」
「え、ええ。元気よ」
眉目秀麗な青年に跪かれ、丁寧に話しかけられて、エファリューはちょっとした令嬢気分だ。
「エファリュー殿は……行くあてがないのですか?」
「ええ、そうですの……」
他に語れることは何もない、と言うようにエファリューは悲しげに睫毛を伏せる。
これも、詮索を拒否するための技だ。ファン・ネルの街では通用しなくなってしまったが、このアルクェスという青年は、優しいというか素直すぎるというか、すぐに信じ切った様子で何も聞いてこなかった。
嘘をつくエファリューの良心が珍しくちくちくするほど、穏やかな声音で「大変ですね」と同調している。
そしてこの後、彼は思いも寄らぬ行動に出た。
「エファリュー殿」
跪いたまま、アルクェスはエファリューの両の手を取った。
「このまま、どうかわたしのそばにいてはくださいませんか!?」
言葉だけなら求愛されているように受け取れた。
エファリューはぞぞぞ、と肌を粟立たせた。彼は確かに見目麗しく、恋人にしたら自慢できるような人物に思える。しかし会って数分で求愛とは、如何に――エファリューの中では論外だ。
にっこりと、愛想笑いを浮かべる。
「ご遠慮いたします」
「しかし、行くあてがないのでしたら、ここにいたらよろしいのでは」
「いいえ、絶対に面倒でしょうから」
確かにエファリューは高貴な身分の御仁との出会いを求めていたが、それは無償奉仕してくれる超極太のパトロンを指してのことである。色恋は御免だった。
ただの平民の男と付き合ったって、なんだかんだ面倒がつきものだというのに、お貴族様にご奉仕なんて絶対骨が折れるに決まっている。
「何も、貴女の手を煩わせることにはなりません」
アルクェスはなおも食い下がった。
「何もしなくていいんです」
その一言に、エファリューの耳がぴくりと動く。
「ただただ其処にいてくれるだけでいいんです。気が向いた時に、ちょっと微笑んでくれる程度で」
ぴく、ぴくり。
「衣食住の保証もいたします! 微々たるものですが、毎月決まった額の報酬もお約束します。だからどうかお願いいたします! これから一生、貴女を囲う許しをください!」
「その話、ちょっと詳しく聞かせてもらえるかしら?」
エファリューは打って変わって、興奮気味に身を乗り出した。破格の好待遇で、一生不自由せずに暮らせるなら願ったり叶ったりだ。
アルクェスは「ありがとうございます!」と心底嬉しそうに頭を下げると、エファリューの手を取り、そっと立たせた。
「どうぞ、中でゆっくりお話を。そうだ、何か温かいものを用意しましょう。山と空を越えてきたんですから、さぞお疲れでしょう?」
しばらくまともな食事をしていなかったエファリューの腹は、お誘いの言葉だけで涎が出そうなほどペコペコだった。
すっかりいい気になって、出された食事にぱくついていたら、猛烈な眠気に襲われた。無作法にもフォークを取り落としてしまう。
かくり、かくりと舟を漕ぎ、椅子から崩れ落ちそうになるのを、アルクェスがすかさず支えた。その口許には、先程までとはまるで真逆の、冷えた微笑が浮かぶ。
「……いますか、サラ?」
「ここに」
彼の呼びかけに応え、扉の陰から赤毛を三つ編みにした侍女が姿を現した。
「
「承知いたしました」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます