🌙第21首 今来むと🌙
今来むと 言ひしばかりに 長月の
有明の月を 待ち出でつるかな
(素性法師)
玄関の灯りを落としたあとも、僕はなぜか外に出る気になれなかった。
窓辺に腰を下ろし、曇りがかったガラスに額をあてる。
九月の夜気は湿りを帯び、冷たくもなく、ただじわりと肌に絡んでくる。
「すぐ行くよ」──その言葉を思い出すたび、胸の奥が微かに熱を持つ。
時計の針はとうに日付を越え、家のまわりはひとつ、またひとつと灯りを落としていく。
道路を走る車も途絶え、代わりに遠くの交差点で信号機だけが規則正しく色を変えていた。
その赤や青が、まるで夜を測るための脈のように思えた。
僕は冷えた窓に掌を押しつける。
そこに浮かぶ結露がじわりと形を変え、街灯の光を歪ませる。
指でなぞると、その水の線はまるで彼女がここに残していった気配のようで、かすかな輪郭を描いた。
「今から行く」──彼女の短いメッセージが届いたのは、もう何時間も前だ。
軽い調子の言葉なのに、僕はその約束に縋るようにして、この夜を待ち続けている。
外気は少しずつ冷えていく。
窓を少し開けると、濡れたアスファルトの匂いが流れ込んできた。
街路樹の葉の擦れる音、遠くを走る自転車のチェーンの響き。
どれも淡く、待ちわびる心をさらに冴えさせる。
「本当に来るのかな」思わず声に出してしまう。
答えはない。ただ、窓に映った自分の顔が、幼く見えて少し笑えた。
やがて、夜の帳がゆっくりとほぐれはじめる。
濃い群青の空が薄まり、遠くのビルの輪郭が透けていく。
その向こうに、白く柔らかな月が浮かんだ。有明の月。
待ちつづけた時間が、ようやく形を持ったように思えた。
彼女はまだ来ない。
それでも、不思議と焦りは消えていた。
月明かりに照らされた窓の水滴がきらりと光る。
待つことそのものが、夜を鮮やかに染めていく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます