❄️第15首 君がため🌱
君がため 春の野に出でて 若菜つむ
わが衣手に 雪は降りつつ
(光孝天皇)
朝の冷たい空気が、頬を刺すように澄んでいた。
川沿いの土手は、まだ冬の匂いを残したまま、見渡す限り白くけぶっている。
芝生の上に散った霜が、日差しを受けて一瞬だけ光り、すぐに溶けて水の粒になる。
「ねえ、ほんとに行くの?」 隣でマフラーに顔を埋めながら彼女が笑う。
息が白く立ちのぼり、風にさらわれていく。
「行くさ。約束したろ」 僕はポケットの手をぎゅっと握りしめた。
冷たいけれど、どこか熱を持っているのは緊張のせいか。
二人で並んで歩く畦道には、まだ若い草が頭をのぞかせている。
指先で触れると、冷たい露がにじみ、掌をしっとり濡らした。
摘んでも摘んでも、小さな緑が次々と顔を出す。 「なんでこんな朝早くにわざわざ草なんか…」 彼女が呟く。
「草じゃない。春のはじまりの印だ」 自分でも照れくさい言葉だった。
けれど彼女は驚いたようにこちらを見て、次の瞬間、ふっと笑う。
白い雲が流れ、陽が差し込む。
その光の中で、彼女の髪に残った霜が一粒きらりと光っては消えた。
僕はその瞬間を見逃すまいと目を凝らす。
摘んだ若菜を手提げ袋に入れる。
袋の底はもうしっとりと湿って重い。
まるで未来を受け止める器のように思えて、胸の奥が少しざわついた。
「寒くない?」 「大丈夫」 彼女は頬を赤くしながら、風に負けないように笑う。
その笑顔は雪の冷たさの上で、ひときわ鮮やかに浮かんでいた。
僕は自分のコートの袖を少し広げて、彼女の肩に寄せた。
布の表面にはまだ溶けきらない雪が残っていて、ひやりとした感触が指先に伝わる。
けれど彼女は嫌がらず、そのまま肩を預けた。
遠くで電車の音が響いた。
世界はいつものように流れているのに、ここだけ時間がわずかに遅れているようだった。
「春ってさ、ちゃんと来るんだな」 「当たり前でしょ」 少し呆れた声。
けれどその言葉の奥に、同じ安堵の響きを僕は聞いた。 手の中の若菜はまだ冷たい水気をまとい、光を受けてほのかに透けている。
その柔らかさに触れるたび、心の奥が確かに温められていく気がした。
雪はもう降っていない。
ただ、袖口に残る白い痕跡が、ほんの少し前の冬をまだ伝えている。
僕はその冷たさを確かめながら、歩みを止めずに前へ進んだ。 やがて、彼女が小さく笑って言った。
「また来年も、一緒に摘みに行こうよ」 その言葉が、風に乗って僕の胸に届いたとき、雪解けの水が光をはね返すように、心の奥にもやわらかな明るさが広がっていった。
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