第8話 段ボールとガラス職人
イザベラとのメールの後
段ボールを積み上げ、簡素だがどこか荘厳な形をつくる章。
中央には、自分がかつて共に過ごした家族写真のコピーを貼り、その周りに彼女の好きだった花を模した段ボールの切り抜きを飾る。
照明はない。だが夜の街灯が段ボールの隙間から差し込み、即席の「愛の祭壇」を照らす。
章はその前に座り込み、仮面の奥で静かに呟く。
「金で守れるものは多い。でも、金で取り戻せないものもある。
僕が失ったのは、触れられる温もり……。資産では買えない、ただ“愛”だったんだ」
街の喧騒が遠くに聞こえる中、段ボールの祭壇は奇妙に輝き、彼の孤独と記憶を飲み込みながら、ゆっくりとひとつの「物語」となっていく。
章は資産家であり、金銭的には十分に妻を支えられるはずだったのだ。
しかし、妻は病に倒れ、医療も看護も尽くしたが救えなかった。
「なぜ自分だけ健康で、なぜ金は役立たなかったのか」――その矛盾が彼を苛み続ける。
その喪失が、彼の「声」を奪った。段ボールの中という閉ざされた世界でのみ、彼は言葉を取り戻す。
段ボールは、彼にとって「棺」でもあり「祈りの空間」でもあり「声を取り戻す小宇宙」でもあったのだ。
光明院章は、SNSの画面を開いたまま、段ボール小屋の奥にしまいこんでいたアルバムを取り出した。
茶色い箱の中に眠っていたのは、彼と妻の笑顔の記録。
引っ越しのたびに、旅行のたびに、贈り物のたびに――段ボールは二人の生活を包んでいた。
章は写真を見つめながら、気づいた。
自分が段ボールを愛してやまないのは、素材としての便利さもあるが
そこに「妻との思い出」が詰まっているからだ。
段ボールはただの箱ではなく、彼にとっては「失われた日々の器」だったのだ。
彼はゆっくりとアルバムをスマホのカメラで撮り、投稿欄に文字を打ち込んだ。
「私は段ボールの中で生きています。
けれど、それは逃げではありません。
妻との思い出が、すべて段ボールに包まれていたから。
離婚という形になり彼女を守れなかった私には、もうここにしか居場所がないのです。」
送信ボタンを押すと同時に、心臓が強く脈打った。
静かな夜の中、通知音が途切れることなく鳴り響き、コメント欄には次々と言葉が流れ込む。
「ただの変人だと思っていたのに……」
「愛の物語だったのか」
「段ボールがこんなに切ないものになるなんて」
SNSで拡散されるその告白は、ついに「段ボール哲学」を単なる奇抜さから人間的な深みに変えていく。
夜更け。
光明院章のスマホは絶え間なく鳴り続けていた。
冷やかし、驚き、憐れみ、嘲笑……。
コメントは千差万別で、どれが本当の声なのかもわからなくなる。
その中で、一通のメールが静かに光った。
件名:「箱の向こうに、私も居ます」
本文:
初めまして。私は長宗我部 愛(ちょうそかべ あい)と申します。
あなたの投稿を読み、胸が震えました。
私も、最愛の人を病で亡くしました。
あなたにとっての段ボールは、私にとってのガラスです。
それは、ただの素材じゃない。思い出と共に生きる手段なのだと思います。
もしよければ、一度お会いしませんか?
箱の中でも、外でも。
私は、あなたの語る言葉を真正面から聞きたい。
差出人:長宗我部 愛
差出人は――ガラス職人の女性だった。
章はしばらく画面を見つめたまま、動けなかった。
段ボールの仮面の奥で、熱いものが頬を伝っていく。
彼女の言葉は、初めて「箱の内と外」をつなぐ橋のように感じられた。
午後の光が都会の小道を斜めに照らす中、章は段ボールの仮面を被り、慎重に歩を進めた。
小さなカフェの前で立ち止まり、軽く息をつく。そこには、もう一つの世界が待っていた。
「光明院章さんですね……」
声の主は長宗我部 愛。透明なガラスのペンダントを首にかけ、手には小さなガラスのオブジェを抱えていた。光を受けて、その表面が微かに虹色に揺れている。
章は段ボールの仮面越しに彼女を見る。
「はい……」
声は小さいが、仮面の内側では確かに心臓が早鐘のように打っていた。
愛はゆっくりと笑みを浮かべる。
「私は、あなたの段ボールの世界を見て、どうしても話したくなったのです。
その箱の中に、どんな光景が広がっているのか……」
章は段ボールの手をぎゅっと握り、少しだけ外の空気を吸い込む。
「見えるでしょうか……僕の……世界は」
その言葉に、愛は静かに頷く。
「ええ、感じます。段ボールの中に閉じた想い、そして光。私のガラスも、同じです。手の中で割れそうで、でも輝く。失ったものを抱えて、私は作り続ける」
章は息を整えながら、仮面の内側で笑った。
「なるほど……あなたのガラス、透明で、でも守るべきものがあるんですね。僕の段ボールも、そうです」
二人の間にしばし沈黙が流れる。
ただ、風が都会の匂いを運び、仮面とガラスを通して光が交わる。
そこに言葉を超えた共鳴が生まれた瞬間だった。
章は心の奥底で思う。
「この人なら、僕の世界を少しずつ開いてもいいかもしれない……」
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