第5話 風の先にあるもの

塔に登って、瞬く間に3か月が過ぎた。


塔の見習いの朝は早い。


夜明けとともに起き出して、早いうちから物見台に立つ。


先輩弟子たちが風読みの修行を手伝ってくれる。


それから朝食をとって、午前は術式や数列、古代語をつかった体系魔法の訓練だ。


エイラは風読みが好きだった。


もはや手助けが、ほとんどいらないのは、半身が大梟だからかもしれない。


風に身を委ねれば、遠くの町の匂い、人々の息遣い、ちょっとした立ち話――それらが、すべて手に取るようにわかる。


それに、とても遠くまで、よく見える。


どこかで咲いた芙蓉ふようの花に、滴が落ちる瞬間。


そして、生まれてから一度も見たことのなかった海。


その波間に太陽の光が反射してできる光の道。


無我夢中で風読みをしているとき、エイラは無邪気な気持ちになれた。


風読みの物見台へと続く暗い螺旋階段を登っていると、背後に気配を感じた。


振り返ると、ロディスがついてきていて、にっこり微笑んでいた。


「おはよう、エイラ」


エイラも微笑み返す。


足元に気を配りながら、塔の鋸壁きょへきへ出ると、その石壁には昨夜の雨の名残がひんやりと残っていた。


二人で並んで立ったところで、ロディスが口を開く。


「エイラ、昨夜メザルに確認したのですが……あなたは風読みだけでなく、遠見とおみもしているかもしれません」


エイラは少し目を見開いた。


「……遠見?」


ロディスはうなずき、壁際の石に腰を下ろす。


塔の周囲を囲む森の先、山々の彼方へ視線を投げるようにして言葉を続けた。


「風読みは、気流に意識を乗せる術です。香りや音の伝わりを感じ取ります。

経験した記憶をもとに情報が再構築される。でも……見たことのない情景、たとえば海が見えるというのは、少し違うと思うんです」


隣の鋸壁に立っていた少女が、栗色の髪を二つ結びに揺らし、興味深げにこちらを振り返った。


エイラは静かに呼吸を整え、目を閉じる。


穏やかな陽の光が額をあたためるのを感じながら、遠くの風の筋を探す。


森を抜けてきた朝の風が、まるで応えるように頬を撫でていく。


その風の源をたどると――

蔦に覆われた古城に、絹糸のような雨が降っているのが見えた。


「あちらの方角の古いお城に、弱い雨が降っています。……確かめようがありませんが」


エイラは肩をすくめた。


「それ、本当だと思う」


少女がこちらに歩み寄ってきた。


「私はアイビー。半身も蔦なの。そのまんまだよね」


少女は両手を胸の前で合わせた。


「でね。ある程度、蔦が生えてるところで何が起きてるか、大体わかるの。

あの大きな楡の木の方角にあるお城でしょ? 今、本当に小雨が降ってるよ」


アイビーが小さく拍手すると、ロディスも微笑んだ。


「メザルが喜んでいましたよ。まったく、何も教えなくても学び取ってくれて楽ちんだ、とのことです」


「風読みと遠見の違いは何でしょう?」


「風読みは、香りや音から情報を得ます。映像が浮かぶ人もいますが、実際には匂いや音でイメージを作っているんです。だから、現地に行ってみると少し違っていることがある。遠見は……その目で、実際に見ている」


ロディスの言葉に、アイビーが笑った。


「難しいよね。たとえば――今日のごはんは何だろう……くんくん。お肉を焼いてるな。そういえば料理番がすごい勢いで包丁をたたいてたな。きっと、今日の料理はひき肉料理の何かだ! これが風読み」


大げさな身振りに、周りが思わず吹き出す。


「でも、そんなことしなくても、ちゃんと見えています。

今日の夕食は――おっきなハンバーグです。これが遠見――お分かり?」


アイビーの笑顔につられて、エイラもふっと口元をほころばせた。


緊張していた背筋が、少しだけ緩む。


けれど――そのときだった。


何かが、こちらを見ている気がした。


水鏡に映るもうひとりの自分と、ふいに目が合ったような感覚。


それは自分自身なのに、自分ではない。


名を知らぬ記憶。


輪郭のない面影。


ほんの一瞬、風が頬を撫でていった。


冷たく、けれど、どこか懐かしいような。


心の奥にそっとふれるような、静かなまなざし。


(――誰?)


エイラはゆっくりと風に意識を潜らせていく。


香り、音、そして光のかすかな揺らぎ――。


風の道を辿って、その視線の来た方角を探す。


――けれど、そこにあったのは、ただの静寂だった。


森のざわめきと、朝の匂い。


そして鳥の羽ばたき。


まだ届かない、もっとそのはるか先の場所。


胸の奥を淡く締めつけるような、もどかしさだけが残った。


「エイラ?」


ロディスが隣で声をかける。


彼女はゆっくりと目を開いた。


心配そうな翡翠色の瞳が飛び込んでくる。


「――ごめんなさい、何でもないわ」


そのとき、視界の隅でヨナが静かに羽をふるわせた。


エイラが目を凝らしていた遥か彼方を見つめ、胸の奥から、鋭く澄んだ声をひとつ響かせる。


――キャア。


まるで、遠くにいる誰かを呼ぶように。


そして、はるか遠く――あわいの空。


――キャア。


黒銀の梟が、弧を描いていた。


イラヤはゆっくりと空を仰ぎ、小さくつぶやいた。


「――呼び合っているんだね」


傍らでその声を聞いた幼い少女が、そっと空に目を向ける。


けれど、イラヤはやさしくその目を覆い、静かに言った。


「もう、うちにおはいり。遠目を使ってはいけないよ――まだその時ではないからね」


****

午後からはメザルの私室で議論の時間だった。


簡素な石造りの部屋の天井に、ロディスがともした魔法灯が揺らめいていた。


「さて。民間魔法と体系魔術について、違いがわかるかな?」


塔の賢人、書庫のメザルは、ゆっくりと三人の弟子の顔を見た。


武人を思わせる鋭い表情をしていたが、弟子たちに議論をさせることが好きだった。


「はい!先生」


シルが、先に口を開く。


「体系魔法は、詠唱や魔法陣、数式や設計図を用いた魔法です。少ない魔力で強力な術を発動できます。私たちのような見習いでも、正確な魔法陣や数式を記憶すれば、一定程度の効果が見込めます」


「よろしい。ではエイラ。何か知っている民間魔法はあるかね?」


エイラは、ミラナに教わった魔法を懸命に思い起こした。


「お湯や水、お茶を出す魔法。服がしわにならない魔法、手がソースで汚れない魔法……生活魔法が多いです」


エイラを見つめるメザルの瞳が好奇心を秘めて光った。


「では、民間魔法についてはどう思う?」


「民間魔法は、イメージの具現化です」


ロディスが驚いたように目を上げ、メザルは興味深そうに手を組んだ。


「面白い切り口だな。多くの弟子はと答えてきたが――どうしてそう思う?」


エイラは少し考えてから言葉をつなぐ。


「民間魔法は、生活の中にある魔法です。薪に火を灯し、桶に水を満たす。特別な呪文は必要ありません。ただ魔力に『こうなればいい』という想いがこもる。そして、それが魔法になるんです」


さらに続ける。


「幼いころに考えました。もし、氷を知らずに成長したら、氷を出す民間魔法はできないのではないか、と。体系魔法は繊細です。詠唱や魔法陣が一字でも違えば、使えない。けれど氷を知らなくても、詠唱が正しければいい。魔法陣が正確であればいい。氷を出せます」


エイラは小さく息をついた。


メザルは微笑を浮かべて続きを待っている。


「一方で民間魔法は、見たことがなければイメージができないので、実現できない。逆にイメージができれば大体でいいし、そのおかげで加減がしやすい。ろうそくとたいまつの火の加減の違いを、イメージで呼び起こし、実現するのが民間魔法なんです」


メザルはうれしそうに頷いた。


「なるほど。では半身の魔法はどうだ? わしの半身はカラスだ。しつこい生き物でね。いじわるをされたら五年は忘れない。おかげで追跡魔法が使える。

『覚えろ、追跡せよ』と告げる。これは詠唱か? 体系魔術と言えるのか?」


エイラはほほえんだ。


「半身に、自分の描いたイメージを伝えているのです」


「魂の根でつながっている一心同体の半身に?」


メザルがいたずらっぽい瞳を向ける。


「だからこそです」


エイラが熱い口調でつづけた。


自分とつながっていても同じ。


目的のイメージを明確に投影し、それを限りなく強固にすること――。


「例えば、私はへこたれそうになったら、自分に言います」


目を閉じ、物心ついたころからの習慣を思い出す。


「私はしたたかな人間だ。私はあきらめない人間だ――そう言い聞かせると、少しだけ心が落ち着くんです。なりたい自分を強固にイメージできる。

半身に語り掛けることは、自分に言い聞かせるのに似ていると思います。

そしてきっと――その声は、魂の奥のもっと深い場所にまで届くのだと」


シルが小さく感嘆の声を上げた。


メザルは手を打つ。


「見事、見事! わしを満足させたのは、ロディスに次いで二人目だ」


ロディスが唇に笑みを含む。


緊張がほどけて、エイラは椅子に身を預けた。


「先生」


シルが手を挙げる。


「先日の火起こしの授業。炉の前に立って、いちいち魔法陣を何重にも展開して詠唱させたのは……今日のための布石でしたね?」


メザルは、はて?と首をかしげ、豊かなひげをしごく。


「そうだったかの?」


弟子たちは思わず顔を見合わせクスクス笑った。


――面白い。学問はこうでなくちゃ。


エイラは心の中でつぶやいた。


(民間魔法こそ、原初の魔法につながるのではないかしら)


そして、胸の奥で決意が芽生える。


――私は、民間魔法や古伝、原初の魔法の研究がしたい。


後で、書庫に行かなくちゃ


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