第2話 祝祭の朝に
春の始まりの朝だった。
エイラは、青灰の瞳をゆっくり開くと、小さく伸びをした。
裸足で羊毛の敷物を踏みしめて立ち上がる。
薄い夜着の上から肩掛けを羽織り、古い木枠の窓を押し上げた。
吐息で水晶窓が曇る。
夜明け前の闇が薄れ、群青の空にひとすじの光がのびていく。
遠い山の際に紫の輪郭が燈り、その灯りで雲が薔薇色に染まり始めていた。
春の甘い香りが、湿った朝風に交じって胸をくすぐる。
――子供の時間が、今日終わる。
胸に迫る切なさを押しとどめながら、エイラは深呼吸した。
今日は、運命に従い塔に登る日だ。
塔から選ばれた者には、十四の年になるまでに召喚状が届く。
エイラは十歳でそれを手にした。
金文字で記された一文――
『汝、十四の春に塔に登られたし』
召喚に応じた者は、塔に登る。
己の魂に呼応する『半身』を見出す儀式を行う習わしだ。
――獣か、鳥か、木か。あるいは虫か。
その答えは、まだエイラにはわからない。
魂が半身と結びつき、初めて塔の魔術師としての歩みが始まる。
淡い期待と不安が胸の底で揺れていた。
****
ミラナは、エイラが庭に出た気配を感じて静かに身を起こした。
今日で、乳母としての役目が終わる。
瑞々しい若葉のようにしなやかで――
それでいて、どこか悟りきったような少女のまなざしを思い出す。
王族に特有の、淡く灰がかった青みを帯びた瞳。
夜明け前の空のような色。
光の加減によっては銀にも見える――母親譲りだ。
艶やかな漆黒の髪は父親譲り。
エイラは髪を風に遊ばせるのが好きだった。
けれど、艶が出るまで丁寧にとかして結い上げるのが、ミラナの密かな楽しみだった。
ふと、あの雷鳴がとどろいた夜を思い出す。
王家の使いが火急の報せを告げた晩――
すすり泣く巫女たちに抱かれていたのは、ぐったりとした双子の赤子だった。
一人は、ほとんど息をしていない。
もう一人も怨嗟に侵され、命の火が今にも消えそうだった。
双子の母、セリヤは失神していた。
誰もが、朝までは持たないだろうと思った。
だが、ミラナの胸を雷のような直感が打った。
――生かさなければならない。
腕に鳥肌が立つ。
原初の神の気配を強く感じたのだ。
ミラナの半身は、最も古きオークの木。
偉大なる癒し手にして、護りの象徴。
原初の神ナアラの娘の化身である大梟の止まり木であり、
生きとし生けるものを育む静かな木陰でもあった。
半身が告げる――
『汝のつとめなり。癒せ、生かせ』と。
ミラナは覚悟を決め、巫女から二人の赤子を受け取った。
目を閉じ、呼吸を整える。
『――我は最も古き者。護りの者。
我はこの樹下にて、すべての災厄を退ける。
不屈の勇気をもって、我が陰に入るこの者らに祝福を与える』
居合わせた者たちは、むせかえるほど濃密な緑の香りを嗅ぎ、葉擦れの音を耳にした。そして、赤子らはまばゆい緑の光りの環につつまれた。
――奇跡は、確かに成されたのだった。
****
ミラナは少女の背中を見つめる。
あの赤子は、十四歳の春を迎えた。
まだ幼く、あどけなさも残る。
けれど、その瞳はすでに――巣立つ準備ができていると語っていた。
ミラナはそっと涙をぬぐい、朝露に濡れた石畳を踏みしめる。
その気配に気付いたのか、エイラはゆっくりと振り返った。
朝の冷気のせいか、白磁のような滑らかな頬には、ほんのり赤みが差していた。
「エイラ」
呼ばれた少女は小さくうなずき、招かれるままに家の中へ入った。
別れまでには、まだ数刻の猶予が残されていた。
ミラナは肩に乗せられた娘の手を、優しく握る。
「エイラ、髪をもう少し整えたほうがいいよ」
湯気を立てる粥鍋の前に立ちながら言った。
その手は、ほんの少し震えていた。
エイラは静かに振り返り、目を細めて微笑む。
「大丈夫。宴に行くわけじゃないもの。それに風がすぐ、ぐしゃぐしゃにするよ」
「――まったく。そういうところはセリヤ様にそっくりさ」
そう言って、しばし背を向けた。
しかし、すぐに目頭を拭い、粥椀を差し出す。
「熱いからね、やけどしないように。きっと塔の者たちは食事なんて出さないから、ちゃんとお食べ」
「ありがとう」
エイラは丁寧に頭を下げた。
食事を終えると、彼女は両手を重ねて胸に押し当てる。
「父様や母様も、こんな風に胸がどきどきされたのかしら」
半身を求める高ぶりを抑え込みながら、ぽつりとつぶやく。
ミラナは答えなかった。
代わりに、娘を後ろからそっと抱きしめた。
その温もりは、胸をつくほど優しくて――
それを決して忘れないように、エイラは目を閉じた。
家の門を出るとき、ミラナは小さな包みを手渡した。
包みには、長く守ってきた二つの品が入っていた。
――母セリヤの指輪。青灰色の宝石がはめ込まれた指輪。
――父カエランの徽章。白鳥の印が刻まれた小さな銀の護り。
「あなたは、王家の血筋、そして風の神ナアラの末裔。その誇りを大切に――さあ、これを持ってお行き。両親はいつでも心の中に生きているよ」
それから、痛みに耐えるように微笑んでミラナは言った。
「あなたに、よい風が吹きますように」
エイラは言葉もなく、深く一礼した。
そして、記憶よりも一回り小さく縮んだように見えるその人を、両手でしっかり抱きしめた。
ミラナはエイラの乳母であり、魔術の師匠だった。
胸の奥には、未来へ踏み出したい気持ちと、いつまでも、この温もりに縋りついていたい気持ちが渦巻いていた。
それでも、言った。
「今まで、たくさんのものを私に与えてくれて、ありがとう。……大好き」
しばらくして、少女は丘の上を見上げた。
そこに塔は建っていた。
朝霧の向こうに、天をつくようにそびえていた。
幾世代もの時を超えて、人々を見守ってきた石の尖塔。
一度、深く息を吸い込む。
朝の空気は澄んでいて、少しだけ冷たかった。
陽光が斜めに差しこみ、空には一羽の鳥が静かに円を描いている。
まるで、彼女の旅立ちを見届けるかのように。
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