Ep.12 鉄の階級
7 Years Ago
May, 2015
晴れ
Maryland Annapolis, United States
アメリカ海軍兵学校
(「海の洗礼」の一件以来、ミラーの態度は明らかに変化していた。あからさまな侮蔑や嫌がらせは鳴りを潜め、代わりに、俺たちの間には、奇妙な共生関係が生まれた)
その日から、俺とミラーの、夜の図書館での個人授業が始まった。
「No, Kamiya. The premise of that vector calculation is wrong. Ships move in three dimensions. Don't think in two dimensions.(違う、カミヤ。そのベクトル計算は前提が間違っている。船は三次元で動くんだ。二次元で考えるな)」
彼の指導は相変わらず辛辣で無愛想だったが、そのおかげで、俺の成績は絶望的な状況を脱し、なんとか中位を維持できるまでになっていた。俺は彼の知識を信頼し、彼は俺の、時に理論を超える直感を、無視できないものだと認め始めていた。
そして、一年間の総決算となる、最後にして最大の試練が訪れた。伝統の「ハーンドン・モニュメント・クライム」だ。
ヤードの中央にそびえ立つ、高さ6.4メートルの記念碑。その表面に、上級生たちが分厚く塗りたくった、約90キロものラード。俺たちの任務は、同期の仲間たちと協力し、誰か一人がこの滑る記念碑の頂上に到達し、そこに置かれた一年生(プリーブ)の帽子を、上級生の士官候補生の帽子に置き換えること。それを成し遂げた時、俺たちの過酷な一年は、ようやく終わりを告げるのだ。
号砲と共に、数百人のプリーブたちが、雄叫びを上げて記念碑に殺到した。
「Let's form a pyramid! Those who are bigger should be at the bottom!(ピラミッドを組むぞ! 体格のいい者は下になれ!)」
ミラーが、持ち前のリーダーシップで叫ぶ。すぐに、ジャックのような屈強な男たちが、記念碑の土台となり、人間ピラミッドを形成し始めた。だが、ラードの壁は想像以上に手強い。
「Damn, this isn't going to work!(くそっ、これじゃ埒が明かん!)」
ミラーが歯ぎしりする。彼の緻密な計算も、この混沌の前では無力だった。
俺は、ピラミッドの中腹で、仲間を押し上げながら、必死に活路を探していた。その時、ふと気づいた。ただ闇雲に登ろうとするから滑るのだ。だが、もし、このラードを拭い去ることができれば……?
「Miller! Use your shirt!(ミラー! シャツを使え!)」俺は叫んだ。「Take off your shirt, wipe the lard off and climb! Make a path!(シャツを脱いで、ラードを拭きながら登るんだ! 道を作れ!)」
一瞬、ミラーの動きが止まった。彼の碧眼が、俺の意図を正確に読み取る。
「You heard me, guys! Take your shirts off! Clear the way to the Memorial!(聞いたな、お前ら! シャツを脱げ! 記念碑(ハーンドン)への道を切り開け!)」
ミラーの号令の下、プリーブたちは次々と制服のシャツを脱ぎ、それを手に記念碑に張り付いた。一枚、また一枚と、シャツがラードを拭い、灰色の大理石の表面に、わずかながら確実な足場が生まれていく。
「Now! Go!(今だ! 行けぇっ!)」
ジャックが、ピラミッドの土台から最後の力を振り絞って叫ぶ。その声に押され、身軽な一人の同期が、俺たちの背中を踏み台にして駆け上がり、ついに、頂上のプリーブ帽に、その指をかけた。
歓声、というよりは、地鳴りのような咆哮が、ヤード全体を揺がした。
その瞬間、俺たちはもはやプリーブではなくなった。
ラードと汗と泥にまみれ、疲れ果てて地面に座り込む。隣にはジャックが、そしてその向こうにはミラーが、同じように荒い息をついていた。俺たちは、言葉もなく、ただ互いの顔を見合わせた。そこには、国籍も、出自も、成績も関係ない。ただ、同じ地獄を共に乗り越えた、同期(クラスメイト)の顔があった。
4 Years Ago
Tuesday, May 22nd, 2018
快晴
Maryland Annapolis, United States
アメリカ海軍兵学校
あの日、ハーンドン記念碑を制覇してから、三年の月日が流れていた。俺たちはもはや、虐げられるだけのプリーブではない。後輩を指導し、時にその心を折り、そして再び立ち上がらせる、上級生という存在になっていた。
「申し訳ありません!」
腹の底から絞り出すようなプリーブの声を聞きながら、俺は自分の役割を冷静に演じていた。ただ理不尽に怒鳴るのではない。彼のブーツの汚れは、ほんの僅かな気の緩みだ。そして、戦場において、その僅かな気の緩みが命取りになる。それを、言葉ではなく、骨身に染み込ませるのが俺たちの役目だった。
そして、四年間という長いようで短い月日は、俺たちに最後の選択を突きつけていた。サービス・セレクション。卒業後、海軍、あるいは海兵隊のどの部隊に進むのかを決める、運命の分かれ道だ。
「俺は、親父と同じ道を行く。水上艦乗りだ。将来は、イージス艦の艦長になってやる」
ある夜、部屋でミラーが言った。その瞳には、一点の曇りもなかった。海軍大将の息子。それは彼にとって重圧ではなく、誇りそのものだった。
「俺は、海兵隊(マリーン)に行く。最前線で、仲間たちと泥にまみれるのが性に合ってる」
ジャックは、その巨体に似合わず、静かに笑った。アイダホの農夫の息子である彼にとって、最も具体的で、最も名誉ある道がそれだった。
二人の視線が、俺に集まる。俺は、しばらく黙り込んだ後、机の上に広げていたパンフレットを示した。そこには、トライデント(三叉の槍)の徽章を持つ、屈強な男たちの写真が印刷されていた。
「……特殊戦(スペシャル・ウォーフェア)だ」
部屋の空気が、一瞬で凍りついた。Navy SEALs。アメリカ軍最強と謳われる、エリート中のエリート部隊。その選抜訓練である
「正気か、ハヤト」ジャックが、心配そうな顔で言った。「あそこは、俺たちが経験してきた地獄とは、次元が違う」
「カミヤ」ミラーの声は、冷たかった。「貴様の身体能力は、決してトップクラスじゃない。それに、あの訓練で求められるのは、貴様の得意な『勘』とやらじゃない。純粋な、狂気の沙汰としか思えないほどの、肉体と精神の持久力だ。お前は、自分を買い被っている」
二人の言う通りだった。俺は、この四年間で自分が万能ではないことを、嫌というほど思い知らされた。だが、俺の決意は揺らがなかった。
俺は、二度と誰かを失いたくなかった。美香のような悲劇を、二度と繰り返させない。そのためには、誰よりも強くならなければならない。机上の理論でも、大艦巨砲でもない。たった一人でも戦況を覆せる、一本の鋭い槍になる必要があった。ならば、俺が進むべき道は、一つしかない。
「買い被ってなんかないさ。俺が、あいつらと比べて何一つ勝っていないことくらい、自分が一番よく分かってる。……だから、行かなきゃならないんだ」
俺の答えに、二人はそれ以上何も言わなかった。ただ、その夜、ミラーが黙って俺の机に、SEALsの選抜試験の過去問題を置いていった。
そして、卒業の日がやってきた。
ネイビー・マリーンコー・メモリアル・スタジアムを埋め尽くす、数千の家族や友人たち。その歓声の中、俺たちは純白の制服に身を包み、士官候補生として最後の整列をしていた。四年間、俺たちを縛り付けたこのヤードとも、今日で別れだ。
式が終わり、卒業生が空に向かって一斉に帽子を投げ上げる。その瞬間、四年間という月日の全てが、走馬灯のように頭を駆け巡った。泥水の中で銃を分解した日。ミラーに殴られ、ジャックに助けられた日。チェサピーク湾の嵐。アーミー・ネイビー・ゲームの熱狂。そして、ラードまみれでよじ登ったハーンドン記念碑。
「……じゃあな」
帽子を拾い上げた後、ミラーが俺とジャックの前に立った。
「ああ。達者でな、二人とも」ジャックが笑顔で答える。
「死ぬなよ、カミヤ」ミラーは、俺だけを見て言った。「貴様がSEALsのトライデントを胸につける日を、せいぜい期待せずに待っててやる」
「お前もな、ミラー。太平洋の藻屑になるなよ」
俺たちは、固い握手を交わした。これが、今生の別れになるかもしれない。だが、俺たちの魂は、見えない絆で繋がっている。
俺は、アナポリスの青い空を見上げた。千四百六十日に及んだ、美しくも残酷なヤードでの日々は、終わった。
だが、本当の地獄は、ここから始まる。俺は、カリフォルニア州コロナドの、灼熱の太陽と、冷たい海を思っていた。
(待ってろよ、美香。俺は、必ずやり遂げてみせる)
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