【お仕事短編小説】電柱は知っている ~見えない都市神経網の囁き~(約40,000字)

藍埜佑(あいのたすく)

序章 「都市の血管、あるいは囁きの始まり」

 都市は無数の線で編まれている。相田晶――アキラは、ビルの窓から見える風景を眺めながら、そんなことを考えていた。眼下に広がる新宿の街は、神経細胞のように伸びる道路と、その間を埋め尽くす建築物の集合体だ。けれどアキラの目には、それらよりももっと本質的な線が見えていた。


 


 高圧線が銀色の腕を広げた送電鉄塔に支えられ、低圧線がコンクリートの電柱を数珠繋ぎにして、毛細血管のように街の隅々へとエネルギーを送り届けている。あれこそが、この都市の本当の脈絡であり、生命線なのだ。


 アキラにとって、電柱は単なるインフラではなかった。それは都市の記憶の保管庫であり、無言の語り部だった。碍子の形状一つとっても、戦後復興期の資材不足で生まれた独特のフォルム、高度経済成長期の大量生産による規格化、そして現代のセラミック技術の粋を集めたハイテク製品まで、時代の変遷が刻まれている。


「相田、ぼーっとしてないで手伝え」


 背後からの声に、アキラはゆっくりと振り返った。声の主は、研修担当の先輩社員だ。その手には、ずっしりと重そうなケーブルの束が握られている。CV-T 325sq――超高圧用の架橋ポリエチレン絶縁ケーブル。導体断面積325平方ミリメートルという、まさに都市の大動脈を構成する巨大な血管だ。


「すみません」


 短く謝罪し、アキラはケーブルの反対側を持った。ずしりとした重みが、都市を養う責任の重さのように感じられた。一メートルあたり約三キログラム。このケーブル一本で、およそ二千世帯分の電力を運ぶことができる。数字で表せば単なるスペックだが、その向こうに見えるのは、朝のトーストを焼く家庭、夜勤明けの看護師が眠る病院、深夜まで灯りの消えない研究室――無数の人生だった。


 東京首都電力――通称TMEPCOに入社して半年。アキラはまだ、この巨大な組織の歯車の一つとして、基礎的な現場研修をこなす日々を送っていた。大学では都市工学を専攻したが、それは建前で、本当の動機はもっと個人的なものだった。


 それは、小学校三年生の夏休みに遡る。


 アキラの実家は、下町の小さな町工場だった。父は金属加工業を営んでおり、母は近所の電器店でパートをしていた。両親は、生物学的には女性として生まれたアキラに、ごく自然に「晶子」という名前をつけたが、アキラ自身は物心ついた頃から、その名前にも、それが表す性別にも、どこか違和感を覚えていた。


 ある日、台風が東京を直撃した。激しい風雨の中、町内の電柱が一本倒れ、一帯が停電した。夜が明けると、真っ先に現場にやってきたのは、青いヘルメットをかぶった電力会社の作業員たちだった。


 幼いアキラは、その作業を食い入るように見つめていた。作業員たちは、まるで外科医のような慎重さで、切れた電線を繋ぎ直していく。高所作業車のアームが、巨大な昆虫の触角のように動き、新しい電柱が天に向かって立ち上がる瞬間は、まさに都市の再生の奇跡だった。


「お嬢ちゃん、危ないから下がってなさい」


 作業員の一人がアキラに声をかけた。


 だが、その時アキラが感じたのは、「お嬢ちゃん」という呼び方への違和感ではなく、もっと深い何かだった。電柱の表面に手を当てた作業員の表情が、まるで患者の脈を診る医師のように見えたのだ。彼は、コンクリートの微細な亀裂から、内部の鉄筋の状態を読み取ろうとしているのだ。


 その日から、アキラにとって電柱は特別な存在になった。通学路で見かける一本一本に、まるで人格があるかのように感じられるようになった。朝の太陽に照らされて長い影を落とす電柱、夕暮れにシルエットを浮かび上がらせる電柱、雨の日に雫を滴らせながらも黙々と街を支え続ける電柱。それらすべてが、アキラにとっては都市の守り神だった。


 中学生になると、アキラは図書館で電力工学の本を読み漁るようになった。


 交流と直流の違い、変圧器の原理、送配電系統の仕組み。数学的な美しさと、物理法則の調和に、アキラは深く魅せられた。特に、フーリエ変換による周波数解析には、音楽のような響きがあった。電力系統で発生する高調波という現象は、まさに都市が奏でる巨大なシンフォニーなのだ。


 高校時代、アキラは性別に関する自分の感覚を、少しずつ周囲に伝えるようになった。両親は最初戸惑ったが、やがて理解を示してくれた。友人たちの中には、冷ややかな視線を向ける者もいたが、アキラ自身は意外なほど平静だった。自分のアイデンティティは、他人に決められるものではない。ちょうど、電柱が風雨にさらされても倒れないように、自分も外部の圧力に屈しない強さを身につけていたのだ。


「相田は物好きだよな。なんでうちみたいなに入ったんだ?」


 作業を終え、ヘルメットを脱ぎながら先輩が言う。アキラの見た目は、この業界では少し浮いていた。生物学的にこそアキラは女性の身体を持っているが、アキラ自身にその認識はない。履歴書の性別欄は、迷った末にどちらにも丸をつけなかった。面接ではその点を少しだけ尋ねられたが、「」と答えると、面接官は軽くうなずいて、それ以上何も訊かなかった。


 実は、その面接官こそが、現在の設備資料課課長である蓮見恭子だった。彼女は後に語ることになるが、アキラの答えに、ある種の潔さを感じていたのだ。複雑な性別観念に悩む現代において、シンプルに「自分は自分」と言い切る強さに、技術者としての芯の強さを見抜いていた。


 以来、社内では「少し変わったやつ」として扱われている。一人称は「自分」。服装は常に機能的な作業着か、性別のないデザインの私服。誰かに媚びることも、反発することもないその態度は、ある種のフラットさを保っていた。


「インフラが好きなので」


 ありきたりな答えを返すと、先輩は「ふーん」と興味なさそうに頷いた。彼にとって電柱はただの仕事道具でしかないのだろう。だがアキラにとっては違う。一本一本に歴史があり、表情がある。


 例えば、アキラが最も愛してやまないのは、昭和三十年代に建てられた木製電柱だ。


 今では珍しくなったクレオソート防腐処理された杉の柱は、独特の芳香を放つ。年輪の幅から、その木が育った気候を読み取ることもできる。太平洋戦争末期の食糧難の年は年輪が細く、戦後復興の豊かな雨に恵まれた年は太い。一本の電柱の中に、日本の近現代史が刻まれているのだ。


 コンクリート柱にも、それぞれの物語がある。


 高度経済成長期に大量生産された円筒形のPC柱(プレストレストコンクリート柱)は、内部に高張力鋼線が螺旋状に巻かれている。これは、コンクリートの圧縮強度と鋼材の引張強度を組み合わせた、工学的な傑作だ。まるで、人間の骨格と筋肉の関係のように、異なる材料が補完し合って、一本の柱として機能している。


 碍子がいしの形状、腕金うでがねの角度、貼られた管理プレートの文字。それらすべてが、その電柱が生きてきた時間と役割を物語っていた。碍子一つとっても、大正時代の磁器製から、戦時中の代用品、戦後の品質向上、そして現代の高性能セラミックまで、日本の窯業技術の進歩が一目で分かる。


 腕金の角度は、その土地の風向きや周辺の建物配置を物語る。


 海風の強い地域では、塩害を考慮した特殊な防錆処理が施されているし、雪国では雪の重みに耐えるため、より頑丈な構造になっている。まさに、電柱は土地の気候風土を体現した、民俗学的な存在でもあるのだ。


 数週間の現場研修を終え、アキラに正式な配属先が言い渡された。


 保守管理部、設備資料課。


 最新のスマートグリッド計画の中枢とは程遠い、いわば過去の遺物を管理する部署だった。


「まあ、最初はこんなもんだ。腐るなよ」


 先輩は慰めるようにアキラの肩を叩いた。だが、アキラの心は意外にも晴れやかだった。そこには、自分が愛してやまない、都市の記憶が眠っているはずだから。


 実際、設備資料課は、TMEPCOの中でも最も地味な部署の一つだった。華やかな新技術開発部門や、メディアの注目を集める再生可能エネルギー推進部とは対照的に、古い図面や台帳を管理する、いわば会社の記憶庫のような存在だ。


 しかし、アキラには分かっていた。どれほど最新のAIシステムが導入されようとも、どれほどスマートグリッドが進歩しようとも、既存のインフラを正確に把握することなしに、未来の設計はできない。過去を知らずして、未来は築けないのだ。


 それは、ちょうど考古学者が古代の遺跡から人類の歴史を読み解くように、電力インフラの発達史から、都市の成長と人々の暮らしの変遷を読み取ることができる。アキラにとって、古い図面は単なる資料ではなく、都市の DNA を記録した貴重な文献だった。

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