二 供花
「そうだ。神隠しだ」
薄暗く静まりかえっている廊下に
医学部の教職員と学生のほとんどはまだ慰霊祭の会場に残っているのか、棟内は人の気配がしなかった。
廊下は外ほど蒸し暑くはないが湿気を含んだ空気が、
「五日ほど行方不明になっただけで神隠しとは、少々短絡的ではないですか? どういう事情でその学生が人探しをしているかは知りませんが、行方不明であればまずは警察を頼るべきでしょう」
馨が苦虫を噛み潰したような表情を浮かべると、高麗は唇を微かにゆがめた。
「……で、行方不明になっているのは子供ですか、大人ですか」
「大人のご婦人だそうだ」
「そうですか」
大人であれば自分の意志で姿を消せる、と馨はため息をついた。
もちろん、子供でも家出をすることはある。
それに、大人でも子供でも拐かしに遭うことだってある。攫われて縁もゆかりもない場所に連れて行かれ、誰にも見つけてもらえないまま生きていることも、死んでいることも考えられる。
ただ、生きているなら神隠しに遭ったのだ、と結論づけるのはおかしい。
事件に巻き込まれた可能性が低いのであれば、その婦人が実は恋人と駆け落ちをした、もしくは事情があって駆け込み寺に駆け込んだ、発作的に家出をした、どこかで事故に遭うか病気になって病院に入院している、などを疑うべきだ。
なのに某学生は、婦人が五日間行方不明になっているのだから死んだか神隠しに遭ったに違いない、と二択で結論づけようとしている。
「まぁ、その学生によると、ご婦人には少々事情があるようでね。それで俺が、神隠しに遭った人を探すことを専門にしている知り合いがいる、と伝えてみたところ、是非会ってみたいとその学生が言うんだ」
「先生にそう言わせるために、その学生は『神隠し』と言ったんでしょうね」
見え見えの手段だ、と馨は呆れた。
「そういうわけで、君に紹介することにしたという次第だ」
そういうわけもこういうわけもないのだが、高麗になにを言ってものらりくらりとかわされることを馨はこの三年で学んだ。
「君の得意分野だろう? 神隠しに遭った人を探すのは」
「いいえ、まったく」
淡々と答えながら馨はゆっくりと首を横に振ったが、高麗は皮肉めいた笑みを浮かべただけだった。
「君は、神隠しにあった人を探すのがうまいともっぱらの評判だよ」
「それは、高麗先生が勝手に僕を神隠しに遭った人探しができる者だと
心底迷惑そうに馨は顔をゆがめた。
「神隠しに遭った妹を探し出した実績があるじゃないか」
「あれは、ただの偶然です。……あのときの僕と同じ気持ちを味わっている人を無下にできないことは確かですが、話を聞くことはできても力になれないことばかりです」
表情を曇らせて馨が告げると、高麗は目を細めて煙草の煙を吐き出す。
「君のように真面目に話を聞いてくれる相手がいるだけでも、救われる人はいるんだ。大事な人が神隠しに遭ったという話を妄言だと嘲笑されて気を病む人もいる。場合によっては、相談に乗ってくれる人を求めてあちらこちらを頼っているうちに怪しげな宗教や団体に入ってしまう人もいるんだよ」
「僕は神道の宮司ですから、祭祀をなりわいにしている者ではありますよ?」
宗教という範疇であれば古参も新興もたいして変わらない。
「君のところは歴史ある淺間信仰の神社じゃないか」
「歴史があれば怪しくないという考え方は科学的、論理的ではないと思いますけどね」
淺間神社の宮司という肩書きが人を引きつけているのであれば、これほど危ういことはないと馨は考えた。
肩書きは場合によっては本人の人格よりも目を引くことがある。
「神隠しは科学的ではないし、論理的でもない。でも、そんな神隠しを君は体験している」
「あれは、僕が小学生のときの話です。当時は状況が状況でしたから、僕が精神錯乱状態で幻覚を見たという可能性もあります。それに、記憶が曖昧なので、あれが本当に神隠しだったのかどうかも、いまとなってはわかりません」
非現実的な体験はいくらでも実際に起きたことではないと説明はできる。ただ、十年以上経っても体験したときの生々しい感覚を馨は忘れられずにいた。
「いくつのときの体験だろうが、経験者であるという事実に変わりはない。そして、そんな君の体験にすがりたいと思う人はいる。すがり付かれる君の方は迷惑かもしれないけどね」
「そう思うのなら、僕を勝手に紹介するのはやめてくれませんか」
「君につらい経験を思い出させてしまうのは酷だとは思っているが――」
「思っていませんよね?」
ふう、とため息をついた馨は風呂敷包みを抱え直す。高麗とこのような会話は何度も繰り返しているが、相手の態度が改まったことはない。押し問答に時間を費やすだけ無駄だ。
「玉串料は出すと言っていたよ」
顔をしかめている馨に、高麗は煙草の灰を廊下に置いてある灰皿に落としながら告げた。
「……とりあえず、話を聞くくらいなら」
背に腹は替えられぬため、馨は渋々了承した。
現在宮守家は、馨の大学の学費と妹の女学校の学費で出費がかさんでいる。
馨は慰霊祭だの地鎮祭だのと、神事の依頼があればできる限り引き受けるようにしているが、玉串料や謝礼は微々たるものだ。
「それで十分だ」
高麗は軽く頷きながらひとりで研究室に入っていった。
手持ち無沙汰になった馨が薄暗い廊下に視線をさまよわせると、廊下の突き当たりにある解剖室の前に誰が置いたものか床に白菊の花束があることに気づいた。
その白い花びらは廊下の蛍光灯に照らされて淡い光を放っているように見える。
「待たせたな」
皺だらけの白衣を手にして出てきた高麗は、白衣のポケットから折りたたんだ紙を取り出すと指に挟んで馨に差し出す。
「相談者の名前と待ち合わせ場所だ」
馨がそれを受け取って広げた。
鉛筆で『実方徹 図書館閲覧室最奥「新青年」十六時』と丁寧に書かれている。
「この名前、なんと読むんですか?」
「さねかたとおる、だ。医学部の二年生だよ」
高麗は小声で答えた。
「今週は毎日図書館で待っていると言っていたから、詳しいことは本人から聞いてくれ。目印として、この雑誌を常に机の上に置いているか読んでいるそうだ」
図書館で勉強をせずに雑誌を読んでいると目立つだろう、と馨は思った。
「わかりました。今日は特に用事がないので、講義が終わったら図書館に寄ってみます」
馨は受け取った紙を元のように折りたたむと袂に入れた。
「ところで、まったく関係ない話ですが、あそこに置いてある白菊はなんですか?」
薄暗い廊下の奥に視線を向けた馨は、白菊の花束を見つめながら高麗に尋ねた。ただの興味本位だが、気になるとどうしても聞かずにはいられなかった。
「時々、あんな風に誰かが解剖室の前に花を供えているんだ。誰なのかはわからない。我々も学生も、花を供えている人の姿を見たことがないんだ」
高麗は煙草の煙を吐きながら淡々と答えた。
「この辺りで霊がさまよっているから
「わかりません。僕はそういうのは一切見えないんです」
霊感なるものはまったく備わっていない自覚がある馨は、素っ気なく答えた。
墓や病院など人の死に関係する場所では幽霊を見たと言う話を時折聞くが、怪談の幽霊であれば市中の井戸や河岸などどこかしこに現れる。自宅で死ぬ人もいれば、道端で野垂れ死ぬ人だっている。死に場所は様々だが、なぜか昨今幽霊の出没場所として病院は増えているらしい。
「ここで解剖された人の幽霊がいるらしいんだ」
「解剖者に対しても、毎年慰霊祭を開催しているんですよね?」
今日の慰霊祭は実験動物を供養するものだが、大学では医学部の解剖実習で解剖した献体者への慰霊祭も行っている。
「慰霊祭をしているから幽霊はいないという極論を唱えたいわけではありませんが……」
「昨年の慰霊祭の後に預かった献体がある」
「供養されていない御遺体がここにあるから幽霊が出るという論法ですか?」
花の一輪、線香の一本で供養したことになるのであれば、世の中の幽霊を祓うことはさぞかし楽だろう、と馨は心の中で皮肉った。
「幽霊は『いる』と思っていると見えますし、『いない』と思っていると見えないものだと思いますけどね。御祓いが必要であれば
気持ちの問題であると馨は思ったが、御祓いをすることで『幽霊がいる』と思っている人の心から幽霊の存在を祓うことは可能だ。
「あと、盛り塩をしておいてはどうでしょうか。ただし、頻繁に塩を交換することと適当に置くのではなく方角を……」
ひとまず馨は盛り塩を提案してみたが、高麗には無視された。多分、面倒臭いと思ったのだろう。
「なるほど。常日頃から禊ぎをして神の領域にいる君には、霊の姿は見えないわけだ」
「いや、僕は見るつもりがないから見えないだけだと思いますけどね。高麗先生こそ、御遺体を解剖していたら霊が見えたりしないんですか」
「見えないよ。この通り、目が悪いからね」
高麗はかけている眼鏡をくいっと上げて断言する。
解剖している身体の持ち主が幽霊になって目の前に立っていたら、なかなか肝が冷えることだろう。遺体へのメスの入れ方に文句を言われようものなら、解剖どころではなくなる。
見えない方がいいものは、世の中にごまんとあるのだ。
「視力の問題ではないと思うんですけどね。というか、先生は幽霊の存在を信じているんですか?」
「幽霊も妖怪も怪異も信じていない」
「あぁ、最初から幽霊がいないと思っているなら、見えるわけがないですよね。やはり、視力の問題ではないですよ」
馨はため息をついた。
「君は、幽霊はいると思っているのかい?」
「幽霊というか……
曖昧に馨は答えた。
「ところで、お話は以上ですか? そろそろ講義の時間なんです」
廊下の壁掛け時計に目をやって馨が高麗に確認する。どうも着替えている時間はなさそうだ。
「あぁ、そうだね。じゃあ、実方君の件は君に任せるよ。俺のことは気にせずに、話を聞くなり断るなり無視するなりしてくれてかまわない」
高麗は、馨に話を通した後のことは気にしないようだ。
「わかりました。ひとまず、会ってみることにします」
相手がどのような人物かわからない以上、一度は会うべきだろうと馨は考えた。
「別に先生の顔を立てるわけではありませんよ。あと、本当に金輪際、こういうのはやめてください」
「そうだね。次からは直接君に頼むように助言だけしておくよ」
「……それもやめてください」
心底嫌そうに馨は顔をしかめた。
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