大正帝都神隠し顛末帖
紫藤市
序 黄泉比良坂
薄墨を流し込んだような暗がりの中を
先導するのは雪のように仄かに光る白猫と、闇よりも深い漆黒の猫だ。二匹の猫の姿以外、周囲は靄がかかったようになにも見えない。一人と二匹は足音すら響かない静寂の中を進んでいた。
なぜ猫たちが自分を先導するようになったのか、彼はまったく覚えていない。気づいたらいつのまにか彼の前を二匹が歩いていたのだ。ここがどこなのか、どのくらい進んだのか、どこへ向かっているのかも一切わからない。彼はただただ無心で二匹の猫の後を追う。
――おにいちゃまぁ。
遠くからかすかに幼児の泣き声が聞こえた気がした。
――おにいちゃま……どこ? ……おにいちゃまぁ。
幼児が自分を呼ぶ声が耳の奥で残響のように聞こえる。
他にも、雨の音や怒号、悲鳴、
それらは、ただ聞いているだけで胸が締め付けられそうになる。
【あの娘をここから連れて帰りたいのか?】
ぐにゃりと目の前の暗がりが歪んだように見えた瞬間、妙齢の婦人の囁き声が頭の中で響いた。
周囲に人の気配や物音はまったくない。
驚いて視線を上に向けようとした馨は【目を瞑りなさい】と叱責するような口調で命令され、慌てて強く瞼を閉じた。
どこからともなく異臭が漂ってくる。さきほどまでは
臭いのせいか、頭がぐらぐらして目眩がする。
ここに長居してはいけない、と本能が警告してくる。
それでも、馨はここから逃げ出すわけにはいかない。姿が消えた妹を見つけ出さなければならないのだ。
【お前はここから先のすべてを見てはいけない。ほんの一瞬でもここから先でなにかを見たら、お前の目は
婦人の問いに対して、馨は素直に首を縦に振った。
相手が何者かはわからないが、いまはこの婦人を頼る他ない。
【よろしい。では、そのまま待っていなさい。あの娘を連れてきてやろう】
みゃあ、と二匹の猫が馨に寄り添うように足元で鳴いた。
次の瞬間、馨の右手に柔らかく温かいものがふわりと触れる。
「おにいちゃまぁ」
耳に響く舌足らずで甘えた声は、紛れもなく彼の妹のものだった。
「由丹子」
目を瞑ったまま馨は妹の名を呼ぶ。
今度は喉からはっきりと声が出た。
「こんなところにいたんだね。由丹子の姿が見えないから、ずいぶんとあちらこちらを探したんだよ」
「ゆにこもおにいちゃまをさがしてたの。ゆにこ、おにいちゃまをなんどもよんだのよ」
泣きべそをかくような声で妹が訴える。
「そうか。ごめん」
必死に探していたのは自分だけではなかった、と馨はなんとか気持ちを落ち着かせようとした。頭の中ではさきほどよりも強くがんがんと警鐘が鳴り響いている。早くここを去らなければ、と焦る気持ちをなんとか落ち着かせる。
「さぁ、僕と帰ろう」
馨が妹の手を握ると、小さく温かな手がぎゅっと握り返してくる。
「うん。ゆにこ、おにいちゃまといっしょにかえる」
うれしそうに彼の妹は声を弾ませて歩き出す。
その手に引かれるようにして馨も足を動かした。
どろりとした重く澱んだ空気が歩みを阻むように全身にまとわりついてきたが、馨は唇を強く噛み締め目を瞑ったまま前に進む。
足がぬかるみにはまり込んだようになかなか上がらない。膝を上げるだけで一苦労だ。
周囲の悪臭はますます濃くなっていた。饐えたような臭い、血の臭い、獣の臭いが髪や肌に染みつくように漂っている。浅い呼吸をするだけで肺の中まで腐りそうな臭いだ。吐き気をもよおすほどの気持ち悪さが増したが、いまは耐えるしかない。
背中を流れる大量の汗は必死に歩いているからなのか冷や汗なのか、わからなかった。
彼の妹は臭いが気にならないのか、握った手を揺すりながら機嫌良く鼻歌を歌っている。
本当にこのまま進んで大丈夫だろうか、と馨が不安を感じたときだった。
しゃん、と穢れを祓うような澄んだ鈴の音が空気を震わせた。
まるで彼の迷いを
それが足元にいるとおぼしき二匹の猫の首にそれぞれついている鈴の響きであることを思い出し、なぜさきほどまでは鈴が鳴らなかったのだろうと一瞬だけ馨は考えてやめた。そのまま、しゃん、しゃん、とすずやかな鈴の音と妹の鼻歌に耳を傾ける。
さきほどまでの頭痛がすっと消えた。胸の中のむかつきもなくなった。全身も倦怠感が引いて軽くなった。
馨は自分の右手を掴む小さな指をしっかりと握り直し、
そして、今度は軽快に歩き出した。
しばらく進んでいると、婦人の声がまた頭の中に響いた。
【さぁ、あと五歩進んだら、目を開けて良いぞ】
声はするが、やはり周囲に気配はない。
【ここが黄泉比良坂と
強い力が馨と由丹子の背中を強く押す。
前につんのめった馨は反射的に目を開けそうになったが、五歩進むまではなんとか耐えた。
「おにいちゃまぁ」
瞼を上げると、泣きべそをかいている妹の顔がすぐ目の前にあった。
足元では二匹の猫があくびをしている。
「ここ、どこぉ」
辺りは暗いが、空に
視界に映る範囲に人家はない。
「どこだろう……」
馨は両腕を伸ばして妹を抱きしめながら、途方に暮れたような声を上げた。
周囲には二人が隠れてしまうほど背丈がある
かすかに吹く風が草と土の臭いを彼の鼻先に運んできた。
自分たちは現世に戻って来たのだという実感がじわじわと湧いてくる。
草むらの向こう側には背の高い木々の影があり、夜鳥の鳴き声が不気味に聞こえてきた。近くに田んぼか池があるのか、蛙の鳴き声もする。
「おにいちゃま、おうちにかえりましょうよ」
由丹子が訴えると、二匹の猫もみゃあと同意を示した。
白猫が「こっち」と道案内をするように先に歩き出す。
黒猫は馨をせっつくように彼の足に頭突きする。
舗装されていない土道だったので、歩く度に足先で小石を蹴飛ばした。
「そう……だね」
先ほどの体験は夢だったのか、その前に見た光景は幻だったのか、と自問自答しながら馨は妹と手を繋いで歩き出す。
一歩進む度に頭の中が澄んでいく。
しばらく歩いて小さな人家らしき明かりが見えたときだった。
「あれ? 僕は…………ここでなにをしているんだろう」
妹の頭を見下ろしながら、馨は呆然とした。
なぜ自分が妹と手を繋いで夜道を歩いているのか、まったくわからなくなっていたのだ。
この日一日分の記憶が丸々消えていたことがわかったのは、数日後のことである。
妹の方も記憶がないのか曖昧なのか、「おにいちゃまがむかえにきてくれたの」以外は不明瞭な言葉を発するばかりだった。
なにしろ、東京の自宅から午後に姿を消した翌日の朝に島根にいたのだ。とてもではないが、幼い子供二人で移動できる距離ではない。
島根まで二人を迎えに来た祖父母には「二人だけでも無事で良かった」と大泣きされた。
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