クトゥルフ短編集04 絵画の世界

NOFKI&NOFU

第1話 絵画の呪縛

「絵の中の女が、まばたきをした。」

「展示室に入った瞬間、腐った海の匂いが漂った。」


「ちょっと……あれ見た? 奥の部屋の絵」

「うん……でも、気味が悪いよ。

見てると吐き気がするって人もいるらしい」


「作者、なんて名前だっけ?」

「確か……ハーマンとかいう画家だろ。

でも完成してすぐ姿を消したってさ」

「消えた? いやだな……」


昼下がりのギャラリーは、柔らかな照明に包まれていた。

談笑する客、作品カタログを手に語り合う学生たち。

普通の展覧会となんら変わらない――ただ一室を除いては。


「あの部屋……空気が違うよな」

「誰も近寄らない。なのに、あの人だけは……」


人々の視線がちらちらと集まる先。

奥まった部屋の中央に、一枚の絵画が異様な存在感で鎮座していた。


黒檀の額縁は重苦しいほどに荘厳で、金の唐草模様が鈍く光を反射している。

しかしその中身こそ、人々を遠ざける原因だった。


「触手みたいなのが……動いてない?」

「いや、錯覚だろ……多分」

「でも、匂いまでしないか? 海の、腐ったみたいな……」


囁きが広がり、やがて消える。

だが奥に立つ一人の男だけは、絵から目を逸らさなかった。


ロバート――骨ばった頬と落ち窪んだ瞳を持つ、美術コレクターだ。

その表情は恍惚に濡れ、まるで信者が祭壇にひれ伏すように、絵へ一歩、また一歩と吸い寄せられていく。


「……素晴らしい」

低く漏れた声に、近くにいた若い女性客がびくりと肩を震わせた。


「この世の“裏側”が、ここに映し出されている……常識や科学では決して届かぬ真実だ。芸術こそが、その扉を開く」


傍らには、ギャラリーのオーナーであるエリックが立っていた。

四十を少し越えた、理性的な眼差しを持つ男だが、その眉間には深い皺が刻まれている。


「ロバート……この絵は危険だ。作者のハーマンは完成直後に行方不明になった。過去の所有者も……例外なく消息を絶ったんだ」


「くだらん迷信だ」

ロバートの笑みは狂気に濡れていた。


「恐怖は凡人の口実にすぎん。お前には聞こえないのか? 画布の奥から……潮騒のような、囁きが」


エリックはぞくりとした。

確かに、絵の前に立つと耳の奥で低いざわめきが響く気がする。

だがそれを口にする勇気はなかった。


「……商売で危険は売りたくないんだ」

「だからこそだ!」

ロバートはテーブルに小切手を叩きつけた。

その手は震えていたが、それは恐怖ではなく歓喜の震えだった。


周囲の客たちは何が起きているかも知らず、遠巻きに噂を交わしていた。

「売れたのかな……」「いや、まさか……」


だがロバートの耳には、もう人の声など届いていない。

絵画の奥底から確かに囁きが――深海の闇よりも古き響きが、彼の理性を削り取っていた。


――扉は、すでに開き始めている。


次回 第2話「コレクターの転落」

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