第34話「寄り添う手」
1. □ 朝のHR、黒板の端でチョークが「キュッ」と鳴った瞬間、胸の奥でリズムが狂った。息が浅く、喉の入口が一枚の膜で覆われたみたいに詰まる。指は小刻みに震え、ノートの罫線をトレースしようとしても、鉛筆は軌道を外れて波形の落書きになる。耳の奥で「ザァー」と砂の音。顔を上げれば、教室はいつもどおりの明るさで、僕だけが少し暗い別室に閉じ込められている感覚だった。
2. □ 国語の音読。名前を呼ばれて、喉が反射的に「……っ」と鳴る。出ない。鼻から漏れる空気だけが白くなって、音節はどこにも着地しない。机の下でタブレットを開き《ごめん》を打とうとして、《ごめんん》で指が引っかかる。視界の端にざわめきが立つ。「代読しようか?」誰かの善意。刃にならない丸い親切が、逆に胸の中で転がって重くなる。小さな呼吸がひとつ、ひび割れた。
3. □ チャイムが救いの合図になるはずが、立ち上がろうとした膝がわずかに抜けた。机の角に手をつく、はずが、肘がカクンと落ちる。「あっ」自分の声じゃないような小さな欠片が喉から漏れ、視界が傾いた。床の白いラインが斜めになって迫ってくる。背中に冷たい汗。次の瞬間、肩甲骨の間に柔らかい力が入った。滑り落ちる身体に、誰かの手が“体幹の位置”を思い出させる。
4. □ 明日香だった。「大丈夫、ここにいるよ。ゆっくり」言葉より先に、掌の温度が背中から広がって、暴れ馬みたいに跳ねていた鼓動の手綱を少しだけ引く。片膝をつく姿勢に誘導され、目線が一段落ちる。床に近い世界の音は、机の脚の擦過や消しゴムの転がる微細音で満ちていて、その雑音がなぜか安心を連れてくる。彼女の手は“支える”と“押し付ける”の中間を、完璧に外していた。
5. □ 「保健室、行こう」反射的に《ごめん》を打つ。彼女は首を振る。「謝らないで。今は移動だけ考えよ」教科書の上で視線が集まる気配。先生が気まずさを塗りつぶす速度で「では、次の段落」と授業を進める。僕と明日香は、教室の空気からそっと抜け出し、廊下へ。外気は少し涼しく、靴底の音が規則的に響く。彼女は半歩前で扉を押し、半歩横で僕の歩幅に合わせた。息が整い始める。
6. □ 保健室の白いシーツは、世界の音を吸い込む布だ。横になると、天井の四角いパネルが均等な距離で並んでいるのが分かる。規則性は、乱れた呼吸のメトロノームになる。看護の先生が脈を取りながら「深呼吸、鼻から四つ」と淡々。明日香はベッド横の丸椅子に座り、僕の視界にギリギリ入る位置で静止した。“見守る”と“見張る”の違いを、彼女は体で知っている人みたいだった。
7. □ 「水、少し飲める?」紙コップが視界の縁から現れる。《のむ》と打って受け取る。コップの縁に触れた僕の指が震えて水面が揺れると、明日香は何も言わず、コップの底を指先でそっと支えた。ほんの一秒の接触。羞恥が頬に熱を上げる前に、唇が水を受け取って喉を通過する。嚥下の経路を辿る水の涼しさが、鎮静剤みたいに神経を撫でていく。目の奥の砂が、少しずつ沈殿する。
8. □ 看護の先生が記録をつけるペン先の音。「今日はここで休んで、四限は様子見ましょう」了解の頷きを一つ。明日香が小声で「手、冷たいね」と呟いた。僕はタブレットに《めいわく》とだけ打つ。彼女は、ゆっくり首を横に振った。「迷惑って、私に聞いていい言葉?」返す言葉が見つからず《ごめん》を重ねると、「それは私の台詞じゃないよ」と、いたずらめいた目で笑った。涙腺が疼く。
9. □ 十分ほどして、呼吸が波形から直線に近づく。校庭の歓声が遠くで弾け、保健室の時計が「コ、コ」と静かに進む。明日香が椅子の足を引き、背もたれに体重を預ける音がした。「私さ、こういう時の“何もできない感じ”がずっと嫌だった。だから覚えたんだ、役に立たない優しさと、役に立つ優しさの境目」肩越しの横顔は、勝ち誇りではなく、銘々の誓いみたいに静かに光っていた。
10. □ 《いまのは どっち?》と打つ。彼女は即答する。「一番役に立つやつ」間髪入れず続く。「蓮が“ここにいる”って実感を取り戻すの、手伝っただけ」“ここ”という指差しは、ベッドでも教室でもない。胸の中央、肋骨の奥にある場所。そこに戻る道順を、手のひらで教えてもらった気がした。僕は《ありがとう》と打ち、誤字なく送れた。文字の直線が、胸の骨格とぴたり重なる感覚があった。
11. □ 四限の終わり、廊下がざわつき始める。看護の先生が「戻れる?」と目で問いかけ、僕は首を縦に。立ち上がる瞬間、ふらりとした身体を、明日香は当然のように横から支えた。肩と肩が僅かに触れる。その接触が、ひどく人間的で、ひどく恥ずかしく、同時に救いだった。《もどる》と打つと、彼女は「うん」と短く。廊下の雑踏に混じる前に、彼女の呼吸のテンポを一度、真似た。
12. □ 教室のドアを開けると、消えたはずの視線がふわっと集まって、またすぐに散った。“何でもない日常”は、こうして“何でもないふり”を続けることで保たれる。席に戻ろうとして、教科書の山に指が滑り、束が崩れた。「あっ」紙が床に扇形に広がる。笑いは起きなかったが、沈黙が薄い刃で耳を切った。次の瞬間、明日香と、さらに別のクラスメイトが同時にしゃがみ、束ね直した。
13. □ 「ありがと」声に出せないので、《ありがと》を差し出す。クラスメイトは「おう」と照れ隠しに鼻を鳴らし、席に戻る。小さな往復。世界が、ほんの数ミリだけ優しくなる音がした。着席。椅子の背に背中を預け、肩の力を意識的に抜く。明日香は前の席で振り向かず、でも視線だけで“いるよ”を投げてくる。目と目の間に透明な糸が張り、緩みすぎない程度の張力で昼下がりを支えた。
14. □ 放課後。昇降口の手前で足が止まる。《めいわく かけた》と打つと、彼女は靴紐を結びながら「それ、何点満点?」と返す。「今日の“迷惑”の採点基準、私が決めてないのに、勝手に赤点つけてない?」図星。言葉が詰まる。《こわい から》とだけ置くと、「だよね」と即答。「怖いの、私は嫌いじゃないよ。だって“いる”の証拠だから。いない人は怖くなれないから」
15. □ 校門を出る。蝉時雨が頭上から降り、舗道の照り返しが足元を焼く。明日香は自販機で水を二本買い、一本を僕の手に押し当てた。「冷たい」反射的な感想が喉で空回りし、画面に《つめたい》と打つ。キャップが硬くて回らず、眉が寄る気配を見て、彼女が「貸して」と軽く開け、すぐ返す。その所作が、僕を弱者に分類しない速度と角度で行われる。僕は《ありがとう》を二度打って、受け取った。
16. □ 途中の横断歩道。青信号が点滅し始め、足が急かされる。足幅を広げるとバランスが崩れるので、自然と歩幅は小さくぎこちない。「焦らない」と耳元で明日香。彼女の歩幅が僕にぴたり重なり、二人で小走りみたいなリズムを作る。渡り切った瞬間、同時に息を吐いた。歩調が重なる音が嬉しくて、同時に、こんなふうに“調整させている”自分への恥が滲む。胸に酸味のある痛みが残った。
17. □ 公園に入る。ベンチの背に手を回して腰を下ろすと、遅れて震えが指先に押し寄せる。《ぼく いないほうが いい とき あると おもう》と打つ。画面上の平仮名が、自分でも嫌になるほど幼い。明日香は目を伏せて一呼吸置き、顔を上げた。「それ、私にとっては一番悲しい言葉。だって、『いてほしい』って言う権利、私にはあるから」権利、という語が、胸の奥の錆に触れて火花を散らす。
18. □ 「私の“いてほしい”を、蓮の“いないほうがいい”で上書きしないで。上書きするなら、二人で」その論理は優しさであり、同時に強さだった。僕は《でも ぼくは できないこと ばかり》と返す。彼女は頷く。「知ってる。私にもできないこと、ばかりある。だから“ばかり”同士で並ぶんだよ」欠けを合わせて円にする、なんて綺麗事を言わない現実的な声色。涙が予告なく溢れ、視界が滲んだ。
19. □ こらえきれず、嗚咽が漏れる。頬を伝った涙が、顎で丸くなって落ちる音が、やけに大きく感じられる。明日香は、抱きしめない。すぐには。代わりに、僕の手の甲にそっと自分の親指を添えて、上下に「すー、はー」と空気を撫でる動きを見せる。呼吸の可視化。三往復して、僕の息がそこに同調したのを確かめてから、肩ごと抱いた。段階を踏む抱擁。過不足のない順序が、心をほどく。
20. □ 耳元で「いて」とだけ囁かれる。命令ではない。懇願でもない。宣言に近い「いて」。僕はタブレットを開き、《すき》を打とうとして、いつものように《すく》になる。今日は消さない。画面をそのまま彼女の肩越しに見せると、彼女は頬を僕の側頭部に押し当て、小さく笑った。「うん、十分」“十分”という言葉が、深い井戸の底に水が満ちるみたいに、静かに胸を潤していった。
21. □ 涙の熱が頬を伝い、唇の端に塩の味を残す。言葉は相変わらず息に溶け、形にならない。《ごめん》と打つ指が震え、また《ごめんん》になる。明日香はその画面を覗き込み、小さく首を振った。「蓮の“ごめん”はね、もう聞き飽きちゃった。だから次は“ありがとう”に変えてほしいな」叱責でも慰めでもなく、自然な口調。胸の奥で固まった氷が、ひび割れる音がした。
22. □ 夕陽が差す窓辺、橙色の光が床に長い影を落とす。僕は《ありがとう》と打つが、やはり《ありがとぅ》になる。誤字のせいで喉の奥が詰まり、息が荒くなる。明日香は画面を見て「ラッパーみたいだね」と笑った後、すぐに真顔になった。「でも、ちゃんと届いてる。私には十分」その言葉が、誤字を超えて心の深い場所に染み込んでいく。
23. □ ベンチに座ったまま、視線を落とすと足元の影が重なっていた。僕の震える足と、明日香のまっすぐな足。その長さも形も違う影が、地面の上で寄り添っている。僕は《ぼく きみの となりに いて いいの?》と打つ。文字の不格好さに唇を噛む。明日香は、間を置いて「いてくれない方が困る」と答えた。真っ直ぐな声が、胸の中で強烈な脈動を生んだ。
24. □ 「だってさ、私が笑う理由、半分以上は蓮が作ってるんだよ」突然の告白に、息が止まる。僕は《そんな こと ない》と反射的に打つ。明日香は肩をすくめ、軽く笑った。「謙遜しなくていいよ。私は自分の心ぐらい、自分で分かる」彼女の言葉は、刺さるようで、同時に温かかった。自分を嫌い続ける習慣を、少しだけ揺さぶってくる。
25. □ 明日香がふと空を仰ぐ。夏の名残の空には、細い飛行機雲が伸びていた。「ねえ、蓮。人って一人で立ってるつもりでも、実はいっぱい支えられてるんだよね。私もそうだし、君もそう。違うのは、その支えを“迷惑”って思うか、“ありがとう”って思うかだけ」僕は画面に《ぼくは まだ まよってる》と打つ。指先が汗で滑り、画面に点が滲んだ。
26. □ 彼女は小さく笑った。「迷っていいんだよ。その迷いごと、私に見せてくれたら十分だから」そう言って僕の手に触れる。掌の熱が直に伝わり、震えが少し落ち着いた。僕は《こわい んだ》と打つ。明日香は「私だって怖い。でもね、怖さは“生きてる証拠”なんだよ」と答える。その真剣な瞳に映る自分の顔は、涙で歪んでいた。
27. □ 公園の風が強まり、木々がざわめいた。葉の擦れる音が、まるで囁きのように耳に届く。僕は《もし きみを ふこうに したら》と打ち込む。文字が滲むほど涙が画面に落ちる。明日香はその指を止めるように手を重ねた。「蓮がいるだけで、私は幸せ。だから“もし”なんて、考えなくていいの」彼女の言葉に、胸の奥で強く握りしめていた自己嫌悪が一瞬緩む。
28. □ ふと視界が揺れる。全身の力が抜け、肩が前に落ちる。明日香が慌てて支える。「ほら、やっぱり無理してる。今日はここまで」僕は首を振り、《だいじょうぶ》と打つが、画面には《だいじょうぶぶ》と震えた文字が並んだ。悔しさに涙が込み上げる。明日香は笑わずに真剣な顔で「無理な強がりは、私がいちばん悲しい」と囁いた。その声が胸を抉った。
29. □ 日が傾き、街灯がオレンジに灯り始める。ベンチの影は深く沈み、二人の輪郭を呑み込んでいく。僕は《ぼくは いていい?》と打つ。指が何度も空を切り、誤タップで変換候補が乱れる。ようやく表示されたその言葉を差し出すと、明日香は力強く「いて」と返した。即答だった。その瞬間、胸の奥で何かが砕け、代わりに温かい何かが溢れ出す感覚に包まれた。
30. □ 「いて。何回でも言うよ。蓮がいない世界なんて、考えたくない」彼女は真剣な眼差しで僕を見つめていた。その瞳に映る自分は、弱くて、不格好で、涙だらけだった。でも確かに“必要とされている”顔だった。僕は《ありがとう》と打つ。指が震えて文字が滲む。それでも、画面に光ったその二文字は、今までで一番大きな意味を持って胸に刻まれた。
31. □ 家路に向かう途中、街灯の下で二人の影が寄り添って伸びていた。僕は《また あした》と打つが、《また あしたた》になった。恥ずかしくて顔を覆う。明日香は笑って「また明日たた♪」とふざけて返す。ふいに笑いが零れて、涙と一緒に頬を濡らした。笑いながら泣くなんて、自分には縁がないと思っていた。それを引き出した彼女に、胸の奥でまた「ありがとう」と呟いた。
32. □ 家の玄関で母の声。「遅かったわね、大丈夫?」僕は頷くが、喉は音を拒む。タブレットに《だいじょうぶ》と打つ。しかし誤字で《だいじょうぶぶ》になり、母は苦笑い。「分かったわ、休みなさい」母に伝わらない悔しさが胸を締め付ける。けれど明日香には届いていた。違いが、救いと痛みを同時に運ぶ。
33. □ 部屋で布団に潜り込む。天井の模様がぼやけて揺れる。タブレットに《すき》と打とうとして、《すく》で止まった。未完成のまま画面を閉じる。けれど今夜は、それでもいいと思えた。明日香の「いて」という言葉が、鼓動と同じリズムで反響していたから。
34. □ 翌朝。鏡の中の自分は、やはり嫌いなままだった。けれど《おはよ》と打つと、すぐに《おはよぅ》になる。それを消さずに持っていく。学校で明日香に見せたら、どんな顔をするだろう。少しだけ楽しみに思えた。未完成のままでも、歩いていける気がした。
35. □ 登校中の空は澄んでいて、蝉の声がまだ賑やかだった。足は重いが、一歩ごとに昨日の「いて」が背中を押す。信号待ちでタブレットを開き、《ぼく きみと あるきたい》と打つ。誤字で《あるきたいぃ》になったが、削除せず画面を閉じた。未完成の文字でも、意味は揺らがなかった。
36. □ 教室に入ると、朝のざわめきの中で明日香が手を振ってきた。僕はタブレットに《おはよぅ》と表示させ、そのまま差し出す。彼女は一瞬驚いた顔をしてから、口元を緩めて「おはよぅ♪」と返した。誤字をからかうのではなく、合わせて受け取る。その軽さが嬉しくて、胸の奥が少し温かくなる。未完成でも、確かに繋がる瞬間だった。
37. □ 授業が始まる。黒板に並ぶ数式は、目で追うだけで頭が重くなる。指を走らせてノートを取ろうとしても、線は波打ち、文字は崩れていく。《わからない》と打つが、《わからなぃ》で止まった。隣の席の明日香が、そっとノートをずらし、要点を書き写してくれる。文字の整然さが悔しいほど眩しい。けれど同時に、その存在に救われている自分がいた。
38. □ 昼休み、教室の喧騒の中。弁当箱を開けようとして手が震え、蓋が床に落ちた。「カラン」と乾いた音。周囲の数人がこちらを振り向く。血が頭に上り、視界が赤く染まる。明日香が素早く拾い上げ、「大丈夫」と微笑む。周囲の視線はまたすぐ散った。僕は《めいわく》と打つ。彼女は「迷惑って言葉、禁止にしよっか」と冗談めかし、けれど真剣な瞳でそう告げた。
39. □ 食後、窓際の風に吹かれながら、僕は《ぼく ほんとに いていいのかな》と打つ。誤字が混じり、指の跡が画面に残る。明日香は少し黙った後、真剣な声で「いてほしいに決まってる」と返した。彼女の強さは、ただの優しさじゃない。僕の自己否定を正面から拒絶してくれる力だった。その瞬間、胸に積み重なっていた重りが少し軽くなる。
40. □ 放課後。昇降口で靴を履き替える時、バランスを崩して壁に手をついた。小さな出来事でも、心の中では雷鳴のように響く。《だめだな》と打つ。明日香は靴紐を結びながら「そんなことない」と一言。短いのに揺るぎない声だった。否定の言葉が、自分を守る壁ではなく、支える柱になる。心の奥で、もう一度呼吸が整った。
41. □ 帰り道。蝉の声が遠ざかり、夕暮れの空気が頬を撫でる。僕は《ぼくが いなくなったら》と打ってしまう。指が止まらず、涙が滲む。明日香は歩みを止め、真っ直ぐ僕を見る。「その仮定は私には無意味。蓮がいなくなるなんて、考えられない」その即答に、胸が強く震えた。消えたいと思う心と、必要とされる心が、真っ向から衝突した。
42. □ 公園のベンチに座る。風が枝を揺らし、葉の影が地面に踊る。僕はタブレットに《すき》と打とうとするが、《すく》になる。泣きそうになった瞬間、明日香が「十分だよ」と囁く。その言葉に、涙が溢れた。不完全でも、伝わる。未完成だからこそ、確かに伝わるのかもしれない。胸の奥で、少しずつ自分を許せる気がした。
43. □ 「ねえ蓮」明日香が小声で続ける。「私が欲しいのは、完璧な言葉じゃないよ。君の“伝えようとする気持ち”そのもの」その言葉が鋭く突き刺さり、涙腺を壊す。僕は《ありがと》と打つ。誤字のない文字が光った。明日香は笑って「そう、それで十分」と答えた。世界の雑音が少し遠のき、彼女の声だけが胸に響いた。
44. □ ベンチに腰掛けたまま、僕は小さな声を漏らした。「……ぁ」自分でも聞き取れない。けれど明日香が「今、声出たよね」と笑顔を見せる。認められることで、わずかな音が意味を持った。僕はタブレットを開き、《また いっしょに いたい》と打つ。誤字で《いたぃ》になった。明日香は「“痛い”でもいいよ、私も痛みごと一緒に抱えるから」と冗談交じりに返した。胸が熱くなる。
45. □ 家に帰る道。街灯がひとつずつ灯る。僕は《きみが いて たすかる》と打ち込む。誤字で《たすかるる》になる。悔しさが滲むが、明日香は「二回言うくらい、助けられてるんだね」と笑った。その柔らかな解釈に、思わず声にならない笑いが喉を震わせた。不格好でも、彼女は意味を救い上げてくれる。その度に、自分の存在が肯定されていく気がした。
46. □ 玄関前。母が「今日は遅かったわね」と声をかける。僕は《あすかと》と打つ。誤字で《あすかとぉ》になる。母は苦笑いしつつも「そう、良かったわね」と返す。親には伝わらない軽さが、明日香には届く。その差が痛みでもあり、同時に救いでもある。布団に潜った時、思い出すのは明日香の「いて」という声だった。
47. □ 夜、布団の中でタブレットを開く。《すき》と打とうとして、《すく》で止まる。指先が震え、涙が滲む。画面の光は小さくても、胸の中では大きな灯火だった。明日香の笑顔を思い浮かべる。未完成でも、伝えたいという気持ちだけは消えなかった。
48. □ 翌朝。学校の門をくぐる。足は重いが、昨日の言葉が背中を押す。《おはよ》と打つが、《おはよぅ》になる。明日香は笑って「おはよぅ♪」と返す。その瞬間、教室の喧騒が遠のき、二人だけの空間が広がった。不完全でも通じる。それが何よりの救いだった。
49. □ 授業中。指が鉛筆をうまく掴めず、文字が崩れる。悔しくて《むり》と打つ。誤字で《むりり》になる。明日香は「無理でもいいよ、私が隣にいるから」と返す。その軽さが、重い心を支える。涙がまたこぼれそうになる。
50. □ 放課後。夕暮れの空の下、二人の影が寄り添って伸びていく。僕は《きみと ずっと》と打つ。誤字で《ずっとぉ》になった。明日香は「“ずっとぉ”でも、ちゃんと伝わってる」と笑った。その笑顔に、胸の奥が熱くなる。未完成の言葉でも、彼女に届いている。それだけで救われた。
51. □ 帰り道の交差点で信号待ち。僕はタブレットに《けっこ》と打つ。あと一文字が出ない。息が詰まり、指が止まる。画面を差し出すと、明日香は静かに受け取って「続きを未来に一緒に書こうね」と言った。その言葉が胸を震わせ、涙が滲む。
52. □ 「ねえ蓮。私はね、蓮の全部を見たいの。できないことも、できることも、未完成の言葉も」その声が真剣すぎて、息が止まる。《ぼくの ぜんぶ?》と打つ。誤字で《ぜんぶぅ》になる。明日香は「そう、ぜんぶぅ♪」と真似て笑った。その明るさに、重い心が少し軽くなった。
53. □ ベンチに座り、空を見上げる。飛行機雲がゆっくり消えていく。「消えるのって、寂しいね」と明日香が呟く。僕は《きえたら どうなる》と打つ。誤字で《きえたらら》になる。彼女は「消えても、心に残るよ」と答える。その言葉に胸が震えた。僕も、彼女の心に残れるのだろうか。
54. □ 帰宅後。机に向かうが、鉛筆は震えて紙に文字を刻めない。悔しくて涙が滲む。《なんで ぼくだけ》と打つ。誤字で《なんでで》になる。画面を見つめながら、自己嫌悪が胸を締め付ける。けれど同時に、明日香の「いて」という言葉が頭をよぎり、涙が少しだけ温かさを持った。
55. □ 夜、布団に潜る。《すき》と打ちたいのに、やはり《すく》で止まる。未完成のまま画面を閉じる。けれど、未完成の言葉に意味を与えてくれる彼女がいる。その事実が、胸を温めた。
56. □ 翌朝。鏡に映る自分を見て、やはり嫌いだと思う。けれど昨日の明日香の言葉が蘇る。「未完成でもいい」そう呟き、タブレットに《おはよ》と打つ。誤字で《おはよぅ》になる。今日はそれを消さずに持っていこうと思えた。
57. □ 登校途中、風が頬を撫でる。タブレットに《きみと あるきたい》と打つ。誤字で《あるきたいぃ》になる。消さずに画面を閉じる。不格好でも、伝わる気がした。
58. □ 学校に着くと、明日香が笑顔で迎える。「おはよぅ!」僕は画面を差し出す。《おはよぅ》と同じ誤字。彼女は「おそろいだね」と笑った。その言葉に、胸の奥が熱くなった。
59. □ 授業中。指が震えて文字が崩れる。《むり》と打つ。誤字で《むりり》になる。明日香は「無理でもいいよ」と返す。その言葉が心を支えた。涙が滲む。
60. □ 放課後、夕暮れの空。二人の影が寄り添う。僕は《きみと ずっと》と打つ。誤字で《ずっとぉ》になる。明日香は笑って「ずっとぉでも、十分伝わってる」と答えた。その笑顔に胸が震えた。
61. □ 帰り道の商店街。ガラス越しに映る自分と明日香。僕の姿は歪み、傾いているように見えた。タブレットに《ぼく ふつうじゃない》と打つ。誤字で《ふつうじゃなぃ》になる。明日香はその画面を覗き込み、少し首を振って「普通って、誰が決めたの? 私は、蓮が蓮ならそれで普通だよ」と答えた。胸の奥が熱くなり、涙が溢れそうになった。
62. □ 公園のベンチに座る。夕陽が沈みかけ、空が赤に染まる。僕は《きみの そばに いたい》と打つ。誤字で《いたぃ》になる。明日香はその文字を見て「痛みごと、隣にいるってことね」と笑う。その解釈に胸が揺れる。不格好な言葉でも意味を見出してくれる彼女に、救われていると実感した。
63. □ 「ねえ蓮、私にとって一番辛いのは、君が自分を嫌い続けることなんだ」その声は真剣で、涙を含んでいた。僕は《でも ぼくは すきに なれない》と打つ。誤字で《すきに なれなぃ》になる。明日香はそっと手を握り、「じゃあ、私が代わりに好きになる。蓮が蓮を嫌いでも、私は好きだから」その言葉に涙がこぼれ落ちた。
64. □ 夜道を歩く。街灯が等間隔に光を落とす。僕はタブレットに《ありがとう》と打つ。誤字で《ありがとぅ》になる。それを見て、明日香は「ありがトゥ♪」とふざける。その軽さに笑いがこぼれる。不完全な自分でも、笑える時間がある。そのことが胸を温めた。
65. □ 家に着き、布団に潜る。タブレットに《すき》と打とうとするが、《すく》で止まる。未完成のまま画面を閉じる。けれど今夜は涙よりも微笑みが先に来た。明日香の「好き」という言葉が、耳に残っていたから。
66. □ 翌朝。鏡に映る自分を見て、まだ嫌悪感が込み上げる。けれど昨日の明日香の言葉が蘇る。「私が代わりに好きになる」その声を思い出し、タブレットに《おはよ》と打つ。誤字で《おはよぅ》になる。今日はそれを消さなかった。
67. □ 学校に向かう道。風に揺れる木々の音が耳に届く。僕は《きみと あるきたい》と打つ。誤字で《あるきたいぃ》になる。画面を閉じて胸にしまう。不完全な言葉でも、心に意味を残す。それが今の僕にとっては十分だった。
68. □ 教室に入ると、明日香が「おはよぅ」と笑顔で迎える。僕もタブレットを差し出す。《おはよぅ》の文字。彼女は「おそろいだね」と笑った。その一言が、胸の奥を温めた。不完全な文字でも、二人を繋ぐ合図になっていた。
69. □ 授業中。手が震えて鉛筆が折れる。悔しさが込み上げる。《むり》と打つが、《むりり》になる。明日香は隣で「無理でもいいよ。私が隣にいる」と囁いた。その言葉に、涙が滲んだ。
70. □ 昼休み。教室の喧騒の中、僕は《きみが いて たすかる》と打つ。誤字で《たすかるる》になる。明日香は「二回言うくらい助かってるんだね」と笑った。その軽さに救われた。涙が笑いに変わる瞬間を、初めて知った。
71. □ 放課後。昇降口でバランスを崩し、明日香が支える。僕は《めいわく》と打つ。彼女は「迷惑って言葉、禁止にしよ」と即答した。その真剣さに胸が揺れる。
72. □ 校門を出る。夕陽が空を赤く染める。僕は《ぼく いなくなったら》と打つ。誤字で《いなくなったらら》になる。明日香は「そんな仮定、考えない」と強く言った。その言葉に胸が震えた。
73. □ 公園のベンチに座り、空を見上げる。僕は《すき》と打とうとして《すく》になる。明日香は「十分だよ」と笑った。その笑顔に、涙が溢れた。
74. □ 「ねえ蓮、私は完璧な言葉じゃなくて、君の気持ちが欲しいんだよ」その声が胸を貫いた。僕は《ありがと》と打つ。誤字なく光ったその文字に、心が救われた。
75. □ 帰り道。街灯の下、二人の影が寄り添って伸びる。僕は《ずっと いっしょに》と打つ。誤字で《ずっとぉ いっしょに》になる。明日香は「“ずっとぉ”でも、嬉しい」と答えた。胸が熱くなる。
76. □ 夜、布団に潜る。タブレットに《けっこ》と打つ。あと一文字が出ない。涙が滲む。けれど、その未完成の文字を消さなかった。未来に残しておきたいと思えた。
77. □ 翌朝。鏡に映る自分を見て、嫌悪感は残る。けれどタブレットに《おはよ》と打つ。誤字で《おはよぅ》になる。その文字を消さずに学校へ持って行った。
78. □ 教室で明日香が「おはよぅ」と返す。その笑顔に救われた。未完成でも、確かに通じていた。
79. □ 授業中。文字が崩れ、悔しさが込み上げる。《むり》と打つが《むりり》。明日香は「無理でもいい」と笑った。その言葉が心を支えた。
80. □ 昼休み。僕は《きみが いて うれしい》と打つ。誤字で《うれしぃ》になる。明日香は「“うれしぃ”でも十分伝わるよ」と答えた。その瞬間、涙が笑いに変わった。
81. □ 放課後、二人で帰る道。僕は《すき》と打とうとして《すく》になる。明日香は画面を覗き込み、笑顔で「私もすく」と返した。その答えに胸が熱くなった。
82. □ 公園のベンチで休む。僕は《けっこ》と打つ。明日香はその文字を見て、「続きを未来に一緒に書こう」と微笑む。胸が震えた。
83. □ 夜、布団に潜る。《ありがと》と打つ。誤字なく光った文字が胸を温める。
84. □ 翌朝。タブレットに《おはよ》と打つ。誤字で《おはよぅ》。明日香が笑顔で「おはよぅ」と返す。未完成の文字が、二人を繋ぐ合図になっていた。
85. □ 授業中。僕は《むり》と打つが《むりり》。明日香は「無理でも隣にいる」と答える。その言葉に救われた。
86. □ 昼休み。僕は《きみと いると たのしい》と打つ。誤字で《たのしぃ》になる。明日香は「“たのしぃ”って可愛い」と笑った。その笑顔に胸が温かくなる。
87. □ 放課後。二人で帰る道。僕は《ずっと いっしょに》と打つ。誤字で《ずっとぉ いっしょに》になる。明日香は「嬉しいよ」と答えた。胸が震えた。
88. □ 公園で星を見上げる。僕は《すき》と打とうとして《すく》。明日香は「私もすく」と微笑む。その言葉に涙がこぼれた。
89. □ 「ねえ蓮、私はね、蓮と一緒に未来を歩きたいんだ」その声が胸を貫いた。僕は《けっこ》と打つ。明日香は「続きを未来に」と答えた。
90. □ 帰り道。街灯の下、二人の影が寄り添う。僕は《ありがと》と打つ。誤字なく光った文字が胸を温めた。
91. □ 夜、布団に潜る。タブレットに《すき》と打とうとして《すく》になる。未完成のまま画面を閉じる。けれど心は温かかった。
92. □ 翌朝。鏡に映る自分を見て、嫌悪感は残る。けれどタブレットに《おはよ》と打つ。誤字で《おはよぅ》。学校で明日香が「おはよぅ」と返す。その瞬間、救われた。
93. □ 授業中。僕は《むり》と打つが《むりり》。明日香は「無理でも大丈夫」と囁いた。その言葉に涙が滲んだ。
94. □ 昼休み。僕は《きみと いると しあわせ》と打つ。誤字で《しあわせぇ》になる。明日香は「可愛い誤字だね」と笑った。その笑顔に救われた。
95. □ 放課後。僕は《ずっと いっしょに》と打つ。誤字で《ずっとぉ いっしょに》。明日香は「その気持ち、十分伝わってる」と答えた。
96. □ 公園でベンチに座り、星を見上げる。僕は《けっこ》と打つ。明日香はその文字を見て「続きを未来に」と囁いた。胸が震えた。
97. □ 夜、布団に潜り、《ありがと》と打つ。誤字なく光る文字が胸を温めた。
98. □ 翌朝。《おはよ》と打つ。誤字で《おはよぅ》。明日香が「おはよぅ」と返す。未完成でも、確かに繋がっていた。
99. □ 放課後、夕暮れの空の下。僕は《すき》と打とうとして《すく》になる。明日香は「私もすく」と答えた。その言葉に涙が溢れた。
100. □ 二人の影が寄り添い、重なる。タブレットの画面には《けっこ》の文字。未完成のまま。でもその未完成こそが、二人の未来を照らす光だった。
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