第7話:秘密の共有、そして夜
大会が終わった後の夜は、不思議なほど静かだった。
昼間の喧騒が嘘のように、会場には俺と氷室先輩の二人しかいなかった。
プールサイドには、まだ昼間の熱気が残っていて、水面に反射する月の光が、かすかに揺らめいていた。夜風が頬を冷たく撫で、昼間とは全く違う、静かで、底知れない闇がプール全体を包み込んでいる。
昼間の、熱狂的な歓声と水しぶきの音が、遠い夢のように思える。
代わりに、耳に届くのは、遠くで鳴る換気扇の鈍い低音と、ろ過ポンプから聞こえる水流の絶え間ない音だけ。遠くの草むらから、かすかに虫の声が聞こえる。
鼻腔をくすぐるのは、昼間よりも濃くなった塩素と消毒液のツンとした匂い。そして、コンクリートの湿り気を含んだ、冷たいプールの空気。足裏に感じる、タイルの冷たさが、俺を現実へと引き戻す。
この静けさの中で、プールはまるで巨大な鏡のようだった。
空に浮かぶ月と、まばらに光る非常灯の緑色が、水面に逆さに映り、揺らめく。
それは、昼間に俺たちが戦っていた場所とは、全く違う、静かで、神聖な、別の宇宙のようにも見えた。
俺たちは、言葉を交わすことなく、ただ静かに佇んでいた。
ロッカー室で着替えを終え、打ち上げに行くはずだったが、俺は、どうしてもこのまま帰りたくなかった。先輩も、同じ気持ちだったのだろうか。彼は、何も言わずに、俺の隣に立っていた。
「……あの、先輩」
俺は、意を決して、声をかけた。
「……はい」
先輩は、静かに答えた。
「俺……あの時、先輩に助けてもらって、本当に、よかったなって、思ってます」
俺は、そう言って、頭を下げた。
先輩は、何も言わなかった。ただ、その沈黙が、俺の言葉を、静かに受け止めてくれたようだった。
俺は、顔を上げ、彼の横顔を見た。
月明かりに照らされた彼の横顔は、いつもよりもずっと、柔らかく見えた。
「先輩は、どうして、飛び込みを続けているんですか?」
俺は、もう一度、彼に尋ねた。
すると、先輩は、遠くを見つめたまま、静かに口を開いた。
「昔、俺にも、ペアを組んでいた相手がいた」
その言葉に、俺は息をのんだ。
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(……え? ペア…? 俺の、代わり…?)
俺の思考は、まるで高速道路で急ブレーキを踏んだかのように、急停止した。そして、その直後に、制御不能の暴走を始める。
(もしかして、俺は、あの人の代わりだったのか? 先輩は、俺に、あの人の面影を重ねていたのか? もし、俺が先輩の期待に応えられなかったら、俺も、アイツと同じように、捨てられていたのか? 俺は、また、独りぼっちになるのか…?)
脳裏に、あの日の光景が蘇る。
雨が降りしきる、灰色のプール。
俺は、プールの縁に座り、ただ一人、震えていた。
誰も、俺に声をかけてくれない。
俺は、この青い水の中で、永遠に独りぼっちなのだと、そう思っていた。
その恐怖が、再び、俺の胸に込み上げてくる。
先輩の瞳の奥に、遠い過去の情景が浮かび上がる。
曇天のプール。降り注ぐ冷たい雨が、水面に小さな波紋を幾重にも広げている。
飛び込み台の上には、苛立ちを隠せない先輩と、諦めの表情を浮かべたもう一人の男がいた。
「…お前には、俺の理論は理解できない」
先輩の声が、雨音にかき消される。
「…ああ、そうだな。俺には、お前の完璧さにはついていけない」
男は、そう言って、静かに飛び込み台を降りていく。
その背中は、何も語らなかった。ただ、ただ、静かに去っていった。
その時の先輩の絶望を、俺は、今、初めて理解した。
彼は、愛するものを、完璧な「理論」で縛りつけ、結果として、壊してしまったのだ。
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「結果は、最悪だった。そいつは、俺の理論についていけなくて、飛び込みを辞めた。俺は、その時、初めて、完璧な理論だけでは、何も成し遂げられないことを知った」
先輩は、そう言って、自嘲気味に笑った。
その表情に、俺は、胸が締め付けられるような痛みを感じた。
彼の完璧さは、孤独から生まれたものだったのだ。
「だから、俺は、もう二度と、誰かとペアを組むつもりはなかった。…でも、お前は、俺の前に現れた」
先輩は、そう言って、俺の顔をまっすぐ見た。
その瞳は、いつになく真剣だった。
「お前は、俺に、新しい希望をくれた。俺の理論と、お前の感覚が、一つになった時、俺は、初めて、本当に美しいシンクロを知ったんだ」
その言葉に、俺の目から、涙が溢れてきた。
それは、喜びの涙でもあり、先輩の過去の痛みを、今、初めて理解した悲しみの涙でもあった。
「……先輩」
俺は、震える声で、彼の名前を呼んだ。
「俺は、先輩に、飛び込みを続けてほしかったんです。俺が、先輩と一緒に飛びたかったんです」
俺は、そう言って、彼の胸に飛び込んだ。
俺の体が、先輩の体にぶつかり、鈍い音がする。
先輩の腕が、俺の背中に回る。その腕の硬さ、筋肉の張りが、俺の体をしっかりと支えている。
先輩の鼓動が、俺の胸に、ドクン、ドクンと、強く響く。
彼の体温が、俺の冷え切った心を、ゆっくりと温めていく。
俺は、先輩の匂いを、胸いっぱいに吸い込んだ。それは、塩素と、かすかな石鹸の匂い、そして、彼の持つ、特別な温かさだった。
先輩は、少しだけ驚いたようだったが、すぐに、俺の体を、優しく抱きしめてくれた。
その体温が、俺の心を温めてくれた。
「…ありがとう」
先輩は、俺の耳元で、静かにそう呟いた。
その声は、震えていた。
その夜、俺たちは、言葉を交わさなくても、お互いの心が、深く共鳴しているのを感じていた。
それは、昼間の喧騒とは違う、静かで、温かい、二人の秘密の夜だった。
時間が止まったかのような、静寂。
プールから滴る水滴が、一粒、また一粒と、静かに水面に落ちる音が聞こえる。
俺は、この夜が、永遠に続いてほしいと、心から願った。
この温かさを、この安心感を、もう二度と失いたくなかった。
夜風が、二人の間を通り過ぎていく。
その風は、俺たちの体を冷やす代わりに、俺たちの心を、より一層、強く結びつけてくれた。
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