シンクロナイズドダイビング ーゼロ距離の呼吸ー

五平

第1話:不協和音の始まり

アスリートに才能が不要だと言う奴がいる。努力こそ全てだと。

俺はあえて、それに異を唱える。

才能ってのは、努力では決して埋まらない溝だ。それは、今日この瞬間も、プールサイドから俺の心に深く突き刺さる、あの男の飛び込みが証明している。


「次、お前らな」


コーチの声に、俺は思わず隣に立つパートナー、つまり氷室先輩を盗み見た。

氷室先輩。飛び込み界の天才であり、俺の憧れであり、そして何より、俺の苛立ちの源。

飛び込み台を一段ずつ上がっていく。足の裏に伝わる、ひやりとしたタイルの感触。一段上がるごとに、プールの青い水面が近づき、その向こうにある天井のライトが眩しくなる。五階建てのビルの屋上から飛び降りるような高所だと、脳内で勝手に連想ゲームが始まった。いや、ビルの屋上ってことはないか。俺はまだ生きているし。でも、もしもビルの屋上から飛び降りて、その下のプールに飛び込むのが仕事だったら、それはもう飛び込み選手じゃなくて……って、ああ、いかんいかん。思考が暴走しかけている。


呼吸を整える。肺いっぱいに吸い込んだ空気は、塩素の匂いが少しだけ混じっている。それが、俺の心を落ち着かせる唯一の救いだった。隣の先輩も同じように息を吸っている。いや、違う。先輩の呼吸はもっと深く、もっと静かだ。まるで、この場のすべての空気を、一人で吸い込んでいるかのようだった。その完璧なリズムに、ほんの少しの乱れも見つからない。


「どうした。足が止まっている」


氷室先輩の低い声が聞こえた。俺の視線には気づいていない。ただ、まっすぐ前だけを見ていた。その声には、一切の感情が含まれていない。ただの事実確認。それが余計に俺の心を逆撫でした。


「別に。何でもありません」


ぶっきらぼうに答えると、先輩は何も言わずに飛び込み台の先端へ進んでいく。俺もその背中を追う。台の先端に立ち、下を見下ろす。さっきまでの幻想が消え、視界にはただ、青い水面と、静かに立つもう一組のペアの姿が見えた。彼らは、俺たちと同じくシンクロの練習をしている、通称『双璧ペア』。技術的には完璧で、空中姿勢も着水も寸分違わない。まるで、一つの魂が二つの体に宿っているかのようだった。


「……まるで、機械だな」


ぽつりと俺が呟くと、氷室先輩は一瞬、眉をひそめた。


「機械か。悪くない表現だ」


先輩はそう言い、一呼吸置いた。


「俺たちが目指しているのは、それ以上だ。な? 行けるな?」


その言葉は、俺の胸に突き刺さった。それは、完璧なシンクロを求める先輩からの、無言のプレッシャー。

俺たちは、同じ飛び込み台に立っているのに、全く別の場所を見ている。


やがて、審判の合図のホイッスルが鳴り響く。

飛び込み台の上で、二人同時に腕を振り上げる。


1、2、3、…


カウントを刻む。体勢を整える。この3秒で、俺たちは互いの心と体を完璧に合わせなければならない。

しかし、俺の心はまだ、先輩の苛立ちと俺の反発でバラバラだった。

俺のカウントが、ほんのわずかにずれた、その瞬間だった。


(あ、しまった……!)


遅れて飛び出した俺のせいで、先輩のフォームも一瞬だけ乱れた。

完璧な着水を想定していた先輩は、そのズレを修正しようと無理な体勢をとる。


「くそっ!」


初めて聞いた先輩の苛立ちの声が、俺の耳に届いた。

そして、それは連鎖した。

俺たちの完璧なはずのシンクロは崩れ去り、二つの飛沫が、バラバラに水面に散った。

着水後の混乱と、コーチの呆れた顔、そしてライバルペアの冷たい視線が、俺の心を深く抉った。


練習後、俺は一人で着替えをしていた。

更衣室は静かで、微かに水の流れる音が聞こえるだけだった。隣のロッカーの扉が、静かに開いた。氷室先輩だ。


「……悪かった」


先輩が、ぼそりと呟いた。

俺は驚き、思わず顔を上げた。先輩が謝罪の言葉を口にするなど、想像もしていなかったからだ。


「別に。俺のミスなんで」

「いや。俺が無理に合わせようとした。お前の感覚を無視した俺のミスだ」


先輩は、そう言って濡れた髪から滴る水を、タオルで拭った。

その言葉に、俺は言い返せなかった。先輩の言う通り、俺は感覚で飛び、先輩は理論で飛ぶ。その「ズレ」が、今日の失敗に繋がったのだ。


「俺たちは、合わない。それだけだ」


先輩は、それだけ言い残し、更衣室の扉に手をかけた。


「ちょっと待ってください!」


俺は、思わず声を張り上げた。

先輩は、振り返らないまま、静かにドアノブを回した。


「本当に、それだけですか?」


俺の声に、扉を開けようとした手が止まった。

先輩は、何も言わなかった。

ただ、その背中が、どこか小さく見えた。


やがて、先輩は静かに扉を開け、そのまま外へ出て行った。

バタン、という音もなく、扉は静かに閉まった。

俺は、ただその静寂の扉を見つめることしかできなかった。

更衣室には、俺一人だけが取り残された。

さっきまで感じていた苛立ちが、不思議と、少しだけ静かになっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る