第10話 家紋

 止まっていた涙が再びあふれ出し、小夜は真之介の胸へひたいを押しつけた。

「だって、だって……わたし、真之介さんのために、何もできないのがくやしくて……っ」

「できなくていいんだよ。きみを家族の元に返すのが、おれの仕事なんだ」

「そっ、それはそうですけど……でもっ」

 頭を上げると、至近距離に真之介の顔があった。

 おたがいにはっとして、頬が熱くなる。

「……小夜」

「真之介、さん……」

 二人の間にある空気が明確に変わったのを感じ取る。

 思わずまぶたを閉じた小夜だったが、すぐに真之介が言った。

「これ以上は駄目だ、すまん!」

 と、慌てた様子で小夜を離し、母屋へと駆けていってしまった。

「ああっ、もう」

 せっかくのいい雰囲気が中断され、小夜はその場にしゃがみこむ。

 しかし、干渉し過ぎだということも頭では理解しているため、この気持ちをどうしていいかが分からない。

 ましてや、相手とは昨日出会ったばかりなのだ。

 二〇二五年においては出会ったその日に結婚という夫婦の話も聞いたことがあったが、一九二五年では許されない価値観だろう。

「もうやだ……」

 熱くなった頬が冷めていくのを感じながら、小夜は深々とため息をついた。


 翌朝、真之介は朝食をすませてすぐに宗一郎を訪ねた。

 布団に伏せた宗一郎は顔色が悪く、真之介を見るなり言った。

「すまないな、真之介。今日はどうも起き上がれそうにない」

 辛いだろうに、宗一郎はいつものようににこりと笑ってみせる。

 真之介は意識して明るい笑顔を返した。

「気にするな。小夜のことはおれがなんとかする。だから、宗一郎は自分のことを優先してくれよ」

「ああ、そうだね。でも、昨夜ゆうべ、少し考えたんだ」

 と、宗一郎は仰向あおむけになって天井を見つめる。

「小夜さんが拒絶されたことには、きっと理由がある。未来へ帰れない理由があるんぢゃないか、と」

「帰れない理由?」

 真之介が首をかしげると、宗一郎は続けた。

「あの門がこれまでと違うのは確かだが、小夜さんが帰れない理由を見つけられたら、何か変わるような気がするんだ」

「……分かった。小夜とまた話をして、その帰れない理由を探すよ」

「ああ、頼んだよ」

 そう言ってから宗一郎は咳きこみ、真之介は心配になる。しかし、すぐに宗一郎は言った。

「行きなさい、真之介。私のことはいいから」

「……ああ」

 躊躇ちゅうちょの後で立ち上がり、真之介は宗一郎の部屋を後にした。


「えっ、わたしの洋服洗ったんですか?」

 浴衣姿で小夜はしのと向かい合っていた。

「はい。またお出かけになられるなら、洋服を着るわけにはいかないでしょう? 着物の用意がございますので、そちらにお着替えなさいませ」

「うーん、それはそうなんですけど……」

 小夜は下着まで洗われてしまったことが不満だった。

 今着けているのは胸を押さえつけるような、スポーツブラをダサくした感じの乳バンドとシュミーズ、下はズボンのような形をしたズロースだ。ほぼノーパンといった感覚のため、ショーツだけでも返してほしかった。

 しかし、しのにどう説明したらいいか分からず困ってしまう。

 すると、真之介がやって来た。

「おはよう、小夜。何か困りごとか?」

「あっ、おはようございます! えっと、何でもないですっ」

 慌てて小夜はそう返し、しのが廊下を去っていく。完全にタイミングを逃してしまった。

 内心がっかりしたものの、真之介の前で下着の話などできるはずもない。

 真之介が部屋へ入ってきて、小夜はしかたなく話題を変えた。

「それで、何の用ですか?」

「宗一郎と話したんだけど、もしかしたら小夜が帰れない理由があるんぢゃないかと思ってな。今日はそれを探すことにした」

「わたしが帰れない理由?」

 小夜にはまるでピンとこず、首をかしげた。

 真之介もまた手がかりがないらしく、息をついてから返す。

「といっても、どうしたらいいかしら」

 急に彼の口から飛び出した女言葉に、小夜は妙な感じを覚える。しかし、真之介は平然としており、どうやらおかしいのは小夜の方らしい。

 しかし違和感をぬぐえず、小夜は顔をそらした。まさか男性が「かしら」を使っていた時代があるなんて思わなかった。常識がひっくり返されたようで、なかなか衝撃が大きい。

 困惑を悟られないようにしつつ、小夜は自分でも考えてみた。もし自分に帰れない理由があるとしたら、いったい何だろうか。

「少なくとも、何かついてたわけぢゃなかったしな。小夜自身に理由があるかもしれないから、あらためて話をしてもらいたい」

 小夜は壁際に置いたかばんをちらりと見てからうなずいた。

「分かりました。座って話しましょう」

 小夜は先に腰を下ろし、真之介も向かい合う位置であぐらをかく。

 どう話し始めようかと考えて、小夜は言った。

「実はわたし、孤児こじなんです」

 真之介がはっと目をみはる。

「三歳の頃、施設に入りました。両親に捨てられたのかどうかまでは分かりませんが、一人で道を歩いているところを保護されたんです」

「すまん。辛いなら、話さなくていい」

 と、真之介がやさしく言ってくれたが、小夜は首を左右へ振った。

「いえ、いいんです。わたしはすぐに養親ようしんに引き取られて、その後、何不自由なく育ちました。お父さんもお母さんもいい人で、わたしにとっては大切な両親なんです。血がつながってなくても、家族だと思っています」

「そうか」

「……でも、自分の本当の両親について知りたいと、ずっと思っていました。もし捨てられたのだとしても、事実を知りたかった」

 小夜はかばんを引き寄せて、中から財布を取り出した。

「だからわたしは吉祥寺へ来たんです。わたしが保護されたのが、吉祥寺だったから」

 財布を開けて取り出したのは、薄桃色のお守りだ。

「このお守りは、保護された時にわたしが持っていた風呂敷ふろしきです」

 留め具で閉じていたそれを開き、小夜は真之介へ見せた。

「わたしを引き取った時、お母さんが風呂敷の一部をお守りにしてくれたんです。いつか本当のことを知りたくなった時、この家紋が手がかりになるかもしれないから、と」

 薄桃色の生地に描かれていたのは、細い線の菱形ひしがたに入った桜の花だ。

 真之介は家紋を見るなりつぶやいた。

糸菱いとびしに陰山桜……」

「もしかして、知ってますか?」

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