野犬公の愛人
鳥羽ミワ
第1話 出獄
最悪、最悪、最悪。
薄暗い地下牢の奥で、エリック・クレーバーは膝を抱えながら、内心そう毒づいた。
細い足首へ嵌められた魔術師用の足枷は、痩せぎすの小柄な身体から、容赦なく魔力を奪い続けている。ずっと冷たい石床に座っていることもあって、意識は半ば朦朧としていた。
職場で拘束されて、罪の心当たりもないのに、そのまま投獄された。宮廷魔術師の証であるローブも杖も奪われてしまった。きっとクビになったのだろう。
風呂はおろか、着替えることすらできていない。仕事着だった白いシャツは傷み、黄ばんでいる。糊の効いていたスラックスの裾もくたくただ。
艶のあった黒い猫っ毛は、皮脂でべとついて額に張り付いていた。金色の瞳を獣のようにぎらつかせながら、鉄格子越しに外の様子を伺う。
水も食事も十分には与えられていないから、喉がカラカラに乾いて、腹が減って仕方がない。太陽の見えない薄暗闇の中で、とっくに時間感覚は麻痺していた。
エリックの生き甲斐は研究だ。地方領主の次男で後ろ盾がなく、同性愛者であることを隠して生きているエリックにとって、研究で結果を出すことだけが救いだった。
だというのに、自分の研究成果を上司に盗まれた。さらには上司から、彼の研究を盗んだという濡れ衣を着せられた。
何人かの同僚たちは抗議してくれたが、その訴えは届かなかったのだろう。一向に解放される気配がない。
はやくここから出してほしい。それとも、この命が先に尽きてしまうのだろうか。
死にたくない。ただ、それしか考えられない。
深く重苦しい絶望にどっぷり浸かりながら、エリックはため息をついた。
見張りの騎士は、身じろぎひとつせず立っている。物音といえば、どこかを走り回るねずみの足音くらいだ。
かつんという足音を、鋭敏になった聴覚が拾う。それは少しずつ近づいてくる。
やがて騎士が、長槍の柄で石床を叩いた。濡れた床へ膝をつき、うなだれる。
わずかに目線を上げたエリックの視界にも、その人の姿が映った。黒いマントを翻して歩み寄ってくる、美しい青年だ。エリックと同年代か、少し年上に見える。
色味の濃い金髪が、薄暗い中でも光を反射して輝やいていた。顔のパーツは完璧に整った形と配置で、薄く笑みを浮かべた表情からは聡明な印象を受ける。
襟の詰まった、騎士団の黒い制服。ジャケットに並んだ金色のボタンには、一点の曇りもない。見張りが跪いたということは、地位の高い人物なのだろう。
王族か、高位貴族か。
青い瞳が、エリックへかちりと視線を合わせた。エリックは痛む身体を起こして、彼へ寄ろうとする。足首の鎖がじゃらりと音を立てた。立ちあがろうとしても、身体が言うことを聞かない。
青年は笑みを消して、「よい」と掌で制止する。
「エリック・クレーバー。お前のことは、既に報告で聞いている。研究内容、非常に興味深かったぞ」
同時に、それはエリックの罪状でもあった。
従来のものより、格段に長い距離での音声転送を可能とする、新しい魔導具と魔術。
そして通信内容を盗む魔術と、それを防ぐ魔術の提案。
それら全ての成果が、直属の上司の研究内容を盗んだものだと見做されたこと。
「宮廷魔術師になりたてのお前が、功を焦って上司の手柄を盗んだのではない。その逆だろう? だからこそお前は、慣例よりも、ずっと重い措置を受けている」
エリックはだんまりと口をつぐんで、立ち上がるのを諦めて四つん這いになった。そのまま青年を見上げると、彼はゆったりとした仕草で胸元へ手を当てる。
「自己紹介が遅れたな。第四王子、レオポルトだ。とはいえ、私はこの国であまりにも有名だから、もしかしたら知っているかもしれんが」
いたずらな笑みに、エリックは死んだ目で微笑みを返す。レオポルトというと、エリックより二つ年上の二十五歳になる、若い王子だ。母親の身分が低いせいか、表舞台で名前を聞く機会はあまりない。
エリックはしわがれた喉で、久しぶりに声を出した。
こんな時だというのに、口をついたのは皮肉だった。
「……王族の方々のご尊顔を拝見できるほど、高い地位ではなかったもので」
間髪入れずに鉄格子の向こうから、槍の柄が突き出される。それはエリックの額を的確に弾いた。衝撃にうめいて倒れ込むと、レオポルトは「よい」と、また掌で制止する。
「エリック。私の噂を知っているか?」
第四王子の噂。エリックは倒れ伏したままのろのろと顔を上げて、レオポルトの瞳を見つめた。
青い虹彩は、ランプの光を浴びて、爛々と輝いている。
「男性も、好きなのだと」
思いの外、すとんと声が出た。騎士はレオポルトをちらりと見て、槍を握りしめる。
レオポルトは「そうだ」と言って、マントを払った。
「気を遣わずともいい。私は色狂いの変態。男女見境なく手を出しては欲に溺れる、王族の面汚し」
芯の通った声で、まるで劇の台詞のように、レオポルトが言う。微笑みは理知的で、ちぐはぐな印象を受けた。
エリックも、彼の噂は聞いている。男女構わず寝所へ引き入れ、交わる。そしてすぐに飽きて、放り出す。まるで雄犬が、雄雌構わず乗りかかって腰を振るように、見境がない。
野犬公。それが、彼の渾名だ。
この社会において同性愛は、厳しく非難される対象だ。子孫を残すべきとされる、貴種たる王侯貴族ともなれば尚更。
ひょっとしたら、彼の噂には、そんな色眼鏡も関係しているのかもしれない。
それにしてもこの人は、どうしてこんなところへいるのだろう。もしかしたら冤罪を見抜いて、助けに来てくれたのだろうか。
見当違いな期待をしてしまいそうになって、エリックの声が震える。
「僕を、どうされるんですか」
「私の愛人として迎え入れる。かわいがってやろうな」
エリックは、沈むように息を吐いた。レオポルトは長い脚を曲げて、ためらいなく汚い床へしゃがむ。鉄格子の向こうから、白い手袋をはめた手が伸ばされた。そしてエリックの投げ出された手の甲を指の腹で撫でて、汚れを払う。
労わるような動きだった。
「ここから出してやる」
悪魔みたいな声だと思った。
「この後の処遇は、期待してもいいぞ」
そして騎士に「話をつけてくる」と囁いて、レオポルトは立ち去っていった。エリックが呆然としている間に、今度は看守を連れて戻ってくる。
看守は慣れた手つきで錠前を解く。太い指で扉を引いて、外への道が開かれた。彼はぶつくさ文句を言いながらも、牢へ入ってきて、また慣れた手つきでエリックの足枷を外す。鈍い金属音を立てて枷が落ち、エリックは思わずレオポルトを見上げた。
レオポルトは「準備は終わったか?」と、牢の外から声をかける。
「はい、ただ今」
看守は不承不承の様子で頷く。「立て」とエリックの腕を乱暴に掴んで、引っ張った。
身体が言うことを聞かない。栄養不足のせいか、手足に力が入らないのだ。
うめくエリックに、レオポルトが「よい」とまた声をあげる。
「あまり乱暴をするな」
あたたかくてかたいものが、エリックを抱き止めた。柑橘のような、甘く爽やかな香りがする。
レオポルトは看守からエリックの身体を引き取り、横抱きにして持ち上げた。
エリックは一切抵抗しなかった。疲れ切った身体は指先を動かすだけで精一杯だし、何かを考える余裕もない。
ただ「どうにでもなれ」と思った。
それから、申し訳ないとも思った。
「もうし、わけ……僕、きたない……です……」
レオポルトは「気にするな」と鷹揚に言った。
「眠っていいぞ」
その声が優しく響いて、エリックはうっとりと目を細める。
歩く振動が腕越しに伝わって心地いい。彼の高い体温に不安がとろけて、なまあたたかい安心感が脳を満たす。
そのままエリックは、レオポルトに連れられて、牢を出た。
腕に抱えられたまま地上へ上がると、春の夜の風が頬を撫でる。その少し冷たい澄んだ風からは、ほんのりと煤けた土の香りがした。暮らしの気配だ。
空を見上げれば、月が優しく光っていた。
それにいよいよ、ずっと張り詰めていたものが切れる。エリックはやっとまぶたを閉じて、気絶するように眠りへ落ちた。
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