美しい狂気に彩られた少女たちの、繊細で残酷な日常譚

トガミスイセイ

第1話「赤を求める少女」

深夜二時のアトリエは、まるで水底のように静寂に沈んでいた。


蛍光灯の青白い光が、無数のキャンバスと画材に囲まれた空間を照らしている。昼間なら学生たちの笑い声や絵筆の音で賑やかなこの場所も、今は桜庭さくらば 詩音しおんひとりのものだった。


「まだ、足りない」


彼女の呟きが、静寂せいじゃくを薄く切り裂く。


パレットの上で混ぜ合わされた赤い絵の具は、どれも彼女の求める色ではなかった。カドミウムレッドは浅薄せんぱくで、バーミリオンは騒がしく、アリザリンクリムゾンは沈鬱ちんうつすぎる。


詩音が求めているのは、もっと深く、もっと純粋で、もっと―――生きている赤だった。


「完璧な赤があれば、きっと」


キャンバスに向かう彼女の瞳は、熱に浮かされたように潤んでいる。描きかけの女性の肖像画ちんうつは、唇の部分だけが白いままで取り残されていた。どんな赤を使っても、そこだけがうまく塗れない。まるで絵の中の女性が、特別な赤でなければ口を開くことをこばんでいるかのように。


時計の針が三時を回った頃、詩音しおんは新しいことを思いついた。


「混ぜ方が悪いのかもしれない」


彼女は絵筆えふでを置き、素手で絵の具を練り始めた。指先に絡みつく粘液ねんえきのような感触が、なぜか心地よい。赤い絵の具が爪の間に入り込み、手のひらを染めていく。


「そう、こうして直接触れれば...」


だが、まだ足りなかった。


どれほど丁寧に混ぜ合わせても、彼女の求める赤は生まれてこない。詩音の呼吸が浅く、速くなっていく。額に汗が浮かび、それが頬を伝って落ちる。


「なぜなの...どうして私の求める色が...」


そのとき、彼女の視線が自分の手にまった。


絵の具に染まった手のひらを見つめていると、ある考えが頭をよぎる。いや、考えというより、ささやき。アトリエの静寂の奥から聞こえてくる、甘いささやき声。


『本物を使えばいいのに』


詩音しおんの心臓が、一度強く脈打みゃくうった。


「本物?」


『そう、本物の赤を』


彼女はゆっくりと立ち上がり、アトリエの隅にある救急箱へと向かった。足音が妙に大きくひびく。まるで自分ではない誰かが歩いているような、不思議な浮遊感ふゆうかんがあった。


救急箱を開ける。中にはばんそうこうや消毒液しょうどくえきと並んで、小さなカッターナイフがあった。


「これで、完璧な赤が...」


月光がガラス窓から差し込んで、カッターの刃を銀色に光らせる。詩音はそれを手に取り、自分の手首に近づけた。


そのとき―――


詩音しおん?まだいたの?」


背後からかかった声に、詩音の手が止まった。振り返ると、同じ絵画専攻の友人・美咲が心配そうな顔で立っている。


美咲みさき...どうして?」


「忘れ物を取りに来たの。電気がついてたから...詩音しおん、その手、どうしたの?絵の具だらけじゃない」


詩音は自分の手を見下ろした。確かに絵の具で真っ赤に染まっているが、それがなぜかとても美しく見える。まるで本当に血が...


「ああ、これ?混色こんしょくしてたの。完璧な赤を作ろうと思って」


「もう三時よ?明日も授業あるでしょう。帰りましょう」


美咲みさきの声は遠く聞こえた。まるで水の中から呼びかけられているような。詩音はぼんやりと頷き、カッターナイフを救急箱に戻した。


「そうね...帰りましょう」


二人でアトリエを出るとき、詩音しおんは一度だけ振り返った。


キャンバスの上の女性の肖像画が、薄暗闇うすくらやみの中でこちらを見つめている。唇だけが白いままで、まるで何かを言いたげに。


『また明日』


詩音しおんには、絵の中の女性がそう言っているように思えた。


---


翌朝、アトリエの掃除当番の学生が奇妙なものを発見した。


詩音しおんの使っていたパレットの端に、絵の具とは明らかに違う赤い液体が一滴、固まっていたのだ。それは他のどの色よりも深く、どの色よりも美しい、完璧な赤だった。


その学生は首をかしげながら、それをぞうきんで拭き取った。


まさかそれが、深夜のアトリエで詩音の指先からにじみ出た一滴の血だとは、知る由もなく。

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