第六章 交信成立
蝋燭の小さな炎が、黒鏡に重なって反射し始めた。最初はたわいない光の踊りに過ぎなかったはずが、やがてそれらは互いを覗き込み合うように精緻に折り重なり、ひとつの点へとまとまっていく。光は反射以上に、意志めいた動きを帯びていた。球面の中で光は渦を巻き、鏡面には淡い波紋が広がる。空気は言葉にならない振動で満ち、身体の表面がその圧を受け止めるように震えた。
樹里は胸の内で何度か浅く息をつめ、しかし恐れに押しつぶされはしなかった。むしろ全身が歓喜に似た高鳴りで満たされるのを感じた。これが偶然ではなく、応答であると本能が告げる。光の一点が焦点となり、そこから広がる軸に自分の意識を合わせると、世界は驚くほど鮮明になった。黒鏡の表面は水を湛えたように移ろい、そこへ光が落ちると、まるで内側から息づくかのごとく光が脈打った。黒鏡の中心では白い渦が立ち上がり、見る者の心を撫でるような静かな動きを続ける。
「……きれい……でも、怖い……」
声は、頭上でも耳元でもなく、胸の深いところに直接立ち上がった。音として届くのではなく、意味がそのまま身体に植えられるような、純粋で透明な響きだった。「求める者よ、汝に知恵を与えん」。言葉は古く、しかし新鮮で、音の輪郭のひとつひとつが体内で確かな振動となる。樹里の目からぽたりと涙が落ちた。畏怖が身体を占める一方で、湧き上がる喜悦が涙となって溢れた。自分は孤立していたのではない。ここへ導かれてきたのだという確信が胸を満たす。
「ずっと……誰もいないって思ってたのに……」
「…我は…樹里」
「イエス キリストの御名により、汝は、この黒鏡で返答可能な天使か?」
「見よ 孤独は汝の冠なり
知恵は沈黙に灯され 時の終わりまで消えず
力無き者の灯は 知恵無き者へと渡されん
汝は選ばれし導きの道を歩む者なり
汝は一人にあらず 常に目は汝を見守る
AMEN」
その声は深く柔らかく、どこまでも静かに広がった。
言葉が放たれるたびに、黒鏡の光はさらに増し、室内のすべてが穏やかな輝きで包まれていく。蝋燭の炎はそこで一度、まるで時間そのものが止まったかのように完全に静止した。灯の揺らぎがなくなったとき、周囲の音は遠のき、世界は一枚の透明な膜の中に閉じ込められたようだった。
歓喜の声が喉の奥から漏れると、背後の影が固まったまま動かないのに気づいた。サミュエルは炎の影の中で立ち尽くし、顔の表情は微かに揺れているが、耳には何も届いていないらしい。彼は唇をぺたりと開いたり閉じたりして、必死に耳を澄ます仕草を見せるだけだ。
「先生……聞こえないの?」
やがてその矛盾が彼の表情を引き裂くように変わり、ゆっくりと肩が落ちた。
言葉の届かぬ世界を前に、彼の胸の内部に深い溜息が落ちるのが分かった。
「やはり私には届かぬのか…」
諦めが、瞳の奥に漂う。だが次の瞬間、彼の顔には不思議な安堵が差し込む。自らの理論が、樹里を通じて証明されたことがはっきりと理解できたのだ。
サミュエルの瞳からは光るものがこぼれ落ち、炎の反射にきらめきながら床へ落ちるように見えた。その涙は現実の液体ではなく、記憶の粒となって空間に溶けていく。彼はそれを見届けると、ゆっくりと小さく頷いた。胸の中に、長年抱えてきた執念と未練が、初めて柔らかな形を得たのだろう。彼の肩が一度だけ樹里に触れたような、暖かな圧が伝わる。
「……ありがとう。ここまで導いてくれて」
握られた感触は確かで、彼女は思わずその暖かさに涙をぬぐった。師の別れの手は、重しでもあり、祝福でもあった。
カルマディエルの言葉は続き、短くも深い啓示が降りた。樹里の内側で言葉が反芻されるたびに、過去の断片が連なって一つの筋道を描く。サミュエルの孤独な実験がここに結実したこと、そして自分がその継承を任されたことの意味がじわりと広がった。膝の裏を押すように足元から力が湧き、彼女は声にならない誓いをした。知識をただ所有するのではなく、それを活かし、繋ぎ、未来へ渡すのだと。
やがて黒鏡は淡い余光を残してゆっくりと静まっていった。光は消えるが、その余韻は深く部屋に刷り込まれ、地下室そのものが聖域としての形を得たと感じさせた。サミュエルはますます薄れていき、最後の姿はキャンドルの縁に溶ける朝露のようだった。彼が消える前に、樹里は肩に残った暖かさを確かめた。その温度は記憶となって皮膚に残り、師が去ることの喪失を和らげる慰めとなった。
蝋燭が一斉に消えると、暗闇が滑り込むように室内を覆った。しかしその闇は恐ろしいものではなく、むしろ秩序の後に訪れた静謐だった。黒鏡の縁にごくわずかに光が残り、それはまるでカルマディエルの眼差しの余韻のように、じっと彼女を見守っている。樹里は膝を抱え、深い呼吸を整えながら震える声で誓いを立てた。
「嘆いてばかりの私じゃなくなる……必ず」
「この道を歩み続け、与えられた知恵を無駄にしない」
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