第四章 技法の修練
早朝の空気はまだ庭の草に露を残し、納屋の木戸を通して入る薄い光は床の石を冷たく撫でていた。樹里は目を開けるとすぐに荷物を放り、手慣れた動作で巻尺と方位磁石を取り出した。大学の課題が積まれていることは頭の端に残っているが、それは日中の音として遠くへ押しやられ、地下室の緻密な幾何学が今日の優先事項だった。彼女は床の目にそって線を引き、蝋燭を仮置きし、角度を定規で確かめる。指先が煤で少し黒くなるのを感じながら、数字と線を一語一語のようにノートに写していく。紙の上の文字は次第に設計図のような重みを帯び、彼女の胸を整えていった。
蝋燭の芯をそっと摘み上げ、一本ずつ高さを合わせる。蝋の縁を親指で撫でると、わずかに油分が指に付く。風を避けるために窓を少し閉め、空気の通り道を計算するように立ち位置を変える。方位磁石の小さな針が北を指すと、彼女は安心したように小さく頷き、同じ動作を幾度も繰り返した。ここは実験室であり、修道院のようでもあった。合理的な寸法と、祈りに似た反復が同居し始めた。
午前中に実験で使う道具を聖別し、定められた場所に配置する。
下宿の部屋で軽い昼食をとり、午後から訓練を行い実験に備えた。
呼吸は日常の呼吸とは別のものになっていった。四で下腹部に吸い込み、二で下腹部に留め、六で下腹部をへこませながら吐き出す。最初は雑念が湧き、隣町で聞いた不穏な話や明日の講義の準備が入り込むが、数を重ねるごとにそれらは溶けていく。体内に熱の流れと冷気の交差が生まれ、胸骨の奥が静かに振動するのを感じる。手の震えが治まり、心臓の打ち方が一定のテンポに落ち着くと、蝋燭の炎もまた、まるで連動するかのように穏やかに揺れ始めた。炎の揃い方を観測する彼女の目は、いつのまにかひとつの器を見るように変わっていた。自分の身体が「器」に、回路になっていく感覚が、新鮮な驚きとともに迫ってくる。
言葉は訓練の要だった。ノートに書き出したラテン語の祈祷文を、朝の湿った空気に溶かすように発音する。最初のうちは舌がもつれ、喉が詰まり、声が薄く散った。だがサミュエルの幻影の注意は細部に及び、鏡の中の彼の影が眉をひそめては口の形を指し示す。叱責の声が地下に反響し、彼女はその一言一言を修正の道具として受け取り、何度もやり直した。
「そんな言い方しなくても……でも、直さなきゃ意味ないよね」
正しい響きに近づくと、皮膚の奥に鳥肌が立った。言葉がただの音から「働くもの」へと変貌する瞬間を、彼女は確かに捉えた。
日々の営みは数値化された。彼女は小さなチェック欄を作り、日付の横に「◎」「△」「×」を付けて進捗を可視化した。◎が増えるたびに胸がふくらみ、×が並ぶと悔しさが喉を締めつける。だが、その二つは同じ線上にあって、どちらも先へ進むための糧だった。蝋燭が安定し、呼吸が滑らかになり、祈祷文の一節がきれいに音の輪郭を持って発せられたとき、部屋の重心がぎりりと変わる。空気が澄み、粉塵の舞いが止まったように感じられると、壁の暗みが少しだけ柔らかくなり、黒鏡に映る像が静かに膨らんでいく。
掃除や準備の合間に、彼女は拾い集めた羊皮紙の切れ端しを復元し、焦げた蝋燭台の痕跡を拾い集めた。
「……あなたも、一人でここにいたんだ」
それらは無造作に置かれていたのではなく、過去の試行錯誤の最後の叫びとして地下に残されていた。紙の縁に残るインクのかすれ、蝋の縁に付着した煤の層。壁に刻まれた印は、時間の経過とともに角が丸まり、しかし意味を失っていなかった。サミュエルの幻影はそうした痕跡を指し示し、かつての失敗と孤独な試行について語った。彼がひとりで試みた軌跡を追体験することで、樹里の心には恐れよりも共感が湧いた。師もまた、同じ迷路を彷徨いながら一歩を刻んだ人間だったのだと知ることは、彼女に不思議な安堵をもたらした。
ある朝、壁の刻印に蝋燭の影が重なった瞬間、過去の光景が一瞬だけ立ち上がるように見えた。若き日のサミュエルが一人で古拙な儀式を行う影絵のような映像が、蝋の光によってちらりと映った。像はほんの一瞬で消えたが、その断片は彼女の胸に深い印象を残した。
「完璧な人なんかじゃない……。そう思うと、ちょっと安心する」
静かにつぶやいた。幻影は叱責する師の顔だけではなく、かつての自分を映す者でもあったのだ。
秋が始まり、大学のレポートを提出しと図書館のバイトに慣れてきた、彼女は夕方に戻ってくると再び地下に籠もり続けた。蝋燭は消耗し、ノートの文字は黒で埋まり、インクの斑は頁を暗く染めていく。眠気が瞼を覆う日には机に突っ伏して短く眠り、目覚めると胴の辺りに微かな冷えを感じる。背後に立つ幻影のサミュエルが、時折彼女を見下ろしているように感じる。だがその姿は厳しさだけを帯びているわけではなく、むしろ亡き者が生きた自分の一部を見守るような、複雑な柔らかさを含んでいた。
数週間が積み重なると、地下は変わっていった。蝋燭の配置は完璧に整い、黒鏡はいつでも応答し得る準備をしているように見えた。呼吸と祈祷はひとつの動作になり、声は安定して黒鏡の前で響く。部屋全体が静謐な均衡を保ち、空気そのものが祭壇として機能するようになった。そのとき、黒鏡はわずかな光を帯び、まだ樹里が呼びかけぬうちから反応を示した。表面の波紋はごく薄く、しかし確かに存在し、胸の奥にさざ波のような期待を立てた。
樹里は立ち上がり、ノートの最後の空欄にインクを滑らせた。そこにはもう「門外漢」である自分は記されていない。彼女は紙面に指を置き、ゆっくりと息を吸った。冷たい地下の空気が肺に満ち、吐き出すときに身体の中で何かが湧き上がるのを感じた。扉の外にはまだ平凡な世界があり、そこに戻れば講義や買物、日常の雑事が待っている。だが地下室の中では、時間は別の秩序で流れていた。彼女は小さく笑い、黒鏡の前に戻ると、次に来るものを迎えるために胸を整えた。
「……次は、もう逃げない」
未知の啓示の匂いが、かすかに蝋の中に漂っている。
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