ドラゴンのあくび
リンドウ_リンドウ
前編
縄張り選びは生涯で最も面倒な作業の一つだ。
若い雄のドラゴンは自身の縄張りを持とうと空を飛んでいた。大きなあくびをひとつする。最後に眠ったときからすでにいくつかの日が過ぎており、頭は霞がかかったようにぼんやりとしていた。翼の付け根には疲労が溜まり、動かすたびに重い痛みを感じる。
前回の縄張りは酷かった。海のドラゴンたちが朝も晩も鳴きまわり、空では小型のドラゴンたちがぎゃあぎゃあと不躾に鳴きわめく。おまけに、一年中じめじめとしていた土地はドラゴンの鱗にまで苔を生やしてしまった。
だから、今度こそは静かで眠りやすい場所を。彼は眠気を押し殺し飛び続けた。やがて、ドラゴンの願いを叶えるかのように一つの島が姿を現す。
島には他のドラゴンの気配がなかった。日当たりも良く、眠れそうな岩場もある。理想の場所だ。
さっそく日当たりのいい岩場に居座り、ドラゴンは眠り始めた。
そうして幾度かの日が巡った頃、島にいくつかの船が着いた。戦乱から逃れ、項垂れた様子の人間たちが降りてくる。そのうちの一人、島を巡っていた男は畏れを抱いた。丘の上、岩だらけの足場を気にすることもなく鎮座するドラゴンを見つけたのだ。その巨大なドラゴンは、人間など気にもとめず眠り続けている。体には苔が生えており、そのドラゴンが生きたであろう時間を物語っていた。
「島の主だ……」
男がそう呟いた瞬間、彼の背後からぞろぞろと仲間たちが姿を現した。彼らの瞳は、恐怖と、それ以上の希望に満ちている。ドラゴンは気配にうっすらと目を開け、静かに島への乱入者を観察した。人間たちは慌てて姿勢を正す。彼らにとって、この島の「主」に敬意を払い、住まわせてもらう許可を得ることは、この新天地での未来を確かなものにするために不可欠な儀式だった。
人間たちは膝をつくと頭を垂れ、両手を上げ、大げさな身振りで何かを訴えかける。ドラゴンの耳には、その言葉はただの甲高い雑音にしか聞こえない。しかし、彼らの表情や仕草から、敵意がないことだけは理解できた。
邪魔をするわけではないのなら、どうでもいい。
ドラゴンは再び瞼を閉じた。その行動を、人間たちは「許可が下りた」と解釈し歓喜の声を上げる。
それからというものの、人間たちはたびたびドラゴンの前に姿を現すようになった。島を開拓するには木を切り、岩を砕かなくてはならない。だが、それで万が一にでも島の主の逆鱗に触れることがあっては自分たちの明日はない。眠るドラゴンに、必死に許しを請う。
ドラゴンは煩わしさに目を開けた。静かに眠っていたいのに何たる騒がしさだ。
ドラゴンは人間たちが木をしきりに指しているのを見ると、ぐっと翼を広げ飛び立つ。そして木が密集している島の真ん中に降り立った。音を立て折れる木々。ドラゴンは更に尻尾を振るい周囲の木をなぎ倒すと、空いた土地に座り込む。ここでいいだろう、さあ寝よう。
人間たちは己の目を疑い、丘の上から森を見下ろした。隙間もなく緑が続いていた景色に自分たちが住めそうな土地ががぽっかりとできたのだ。それも、一瞬にして。
ドラゴンが我々の願いを聞き届けてくださった!
人間たちは歓喜の声を上げた。
人間たちはすぐに開拓を始める。森を切り開き、畑を耕し、子どもたちにドラゴンの起こした奇跡を話した。
ドラゴンは憂いた。せっかく森に逃げたというのに、人間たちがすぐに押し寄せてきたのだ。たまらず山を崩し寝床を作れば、人間たちは道を作る。海辺を崩せば港を作る。もうどうしようもない。ドラゴンは諦め、また元の岩場に戻った。
そうして、少しずつではあるが島は拓かれていった。道や橋を作り、ドラゴンの巨体が通れるほどの太い道も作られた。ドラゴンが何も言わないのを「協力してくれている」と解釈した人間たちは、ますます熱心に開拓を進める。
ドラゴンはただ、その様子を遠巻きに眺めていた。眠り、目を覚まし、また眠る。人間たちの声が、遠くのさざ波のように聞こえてくる。たまに、リーダーらしき男が妻や子どもたちを連れて挨拶に来るが、言葉の通じない彼らと関わることはない。子どもたちがドラゴンによじ登って遊ぶのを、彼はただ静かに受け入れていた。
ある日、いつものように男がやってきた。そしてしきりになにかを伝えると、麓を指し示す。視線をやると、何やら巨大な物が丘を向いて静かにたっていた。人間の住む家に似ているが、大きさが桁違いだ。
それは、ドラゴンを讃える神殿だった。
男が合図を送ると、壁だと思っていた物が開きだす。彼らに向かって口を開くそれは、ドラゴンが入れそうなほどの大きな扉だ。
男は何かを期待するような素振りを見せると、ドラゴンへ跪く。だがドラゴンは静かに目を閉じた。眠るだけなら、わざわざあんなものに入る必要はないのだ。
時が流れ、島には多くの人が移り住み、少しずつ変わっていった。
まずは世代が変わった。リーダーが老け込み、衰えると、彼が連れてきていた子どもが新しいリーダーになった。子どもが家族を増やすと、その子どもがまたリーダーになる。
やがて初めにドラゴンと友好的だった世代が一人もいなくなると、次第に彼らはドラゴンのもとへ足を運ばなくなっていった。
そして島も変わる。最初はぽつぽつと疎らにあった家は次第に増え、今ではドラゴンのために作られた道すらも覆わんとしていた。丘の麓にあったあの巨大な神殿には島の武具や歴史が飾られるようになった。
ドラゴンはときおり目を覚まし、それらを眺めると再び眠りに落ちる。
人間がどれだけ入れ替わろうと、景色が変わろうと、安全な縄張りさえあればそれでよかったのだ。
だが、ある日彼は不愉快な音で目を覚ました。
神殿の奥から二人の人間が出てくる。彼らは何か大きな包みを背負っていた。
盗人だ。ドラゴンの本能が猛烈な不快感を示す。
ドラゴンは久しぶりに体を起こし、唸り声を上げた。
二人の盗人は、夜の闇に響くドラゴンの唸り声に驚き、持っていた包みを落として逃げ出した。包みの中身は、古い武具や装飾品だった。それは、かつて人間がこの島に持ち込み、彼らが「歴史」として神殿に飾ったものだ。
人間を追うドラゴンを見て、島の住人たちは恐怖に陥った。
島の守り神が人間を襲っている!
今代のリーダーは武装した人々を引き連れて駆けつけた。彼の目に映るのは、神であったはずのドラゴンが怒りをあらわに家を壊し、怯える人間を追いつめる姿だ。リーダーは、散らばった展示品には目もくれず、武器を構えた。その胸には、苛立ちが浮かぶ。くだらない先祖の習わしで、これまでその存在を許してやったというのに人間を襲うとは!もはや神とは言い難い、この島には置いておけん!
リーダーたちは弓を持ち、ドラゴンに向けて矢を放った。ドラゴンは意に介さずに足を進め、その太い尻尾で周囲の家を打ち壊す。何かを探すように瓦礫を踏み潰すその足に、長剣が振り下ろされた。
途端、ドラゴンが不快だと言わんばかりに振り向き、その目にリーダーを映す。
リーダーは自身を映すその巨大な瞳を見て、全身を恐怖で震わせた。そこに宿る感情は、憎しみでもなければ、殺意でもない。ただの、不快感。それは、かつて島の住民が称えたとされる「神」などではなく、ただの原始的な「動物」の感情だった。
ドラゴンは吠える。もはやここは安全な縄張りではなくなった。
首を伸ばし、空気中の匂いを嗅ぐ。すぐに方向を定め、家が立ち並ぶ街を進む。そこは奇しくも、かつてのリーダーがドラゴンのために作った大通りだった。
人間たちは恐怖し、逃げまどう。ドラゴンが家々を踏みつぶし、その尻尾で近づく人々を薙ぎ払っているのだ。リーダーは住人の悲鳴に我に返ると、島を壊す脅威に立ち向かうために矢をつがえた。
人々の放つ矢が降りそそぎ、そのいくつかは鱗を傷つける。ドラゴンは苛立ち、翼を広げようとした。だが、周りの建物が邪魔だ。仕方なしに家を踏みつぶし、そのまま歩みを進める。
やがて島の端にたどり着いたドラゴンはようやく翼を広げ、立ち上がった。巨大な影が街へ降りかかり、脅威を追い払わんとしていた人々の心に恐怖を植え付ける。
ドラゴンは月の光を浴びると、力強く飛び立つ。
遠ざかり、小さくなっていくその姿を見つめ、恐怖にかられていた人々の心に希望が戻っていく。ドラゴンは立ち去った。脅威は去った!我々は愛するこの島を守ることができたのだ!
島に歓喜の声があがる。
こうして、ドラゴンは島から姿を消した。
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