三日月夜話(短編集)
坂本良
【一章】『月紅の二重輪』
友人から相談を受けた。
彼の母親はカメラが趣味で、もう何十年も写真を撮り続けているらしい。
再来年には年金を受給する年齢になるが、それだけはいずれ生活が苦しくなると分かり切っている。彼自身は結婚していて、子供も二人。一人暮らしの母親に仕送りしてやりたいのは山々だが、そこまでの給料を貰えていないのは、俺もよく知っていた。
そこで、母親が長年に渡って撮り溜めた写真を、写真集か何かにして、生活費の足しに出来ないかと考えているそうだ。
軽く調べたところ、今は自費出版のハードルも低く、電子書籍にすれば在庫を抱える必要もない。自力で何とかなりそうではあったが、それだけではネットの海に埋もれてしまい、小遣い稼ぎにもなりそうにないのだと、彼は嘆いていた。
いつだったか彼と酒を飲んだ時、SNSで知り合った知人が出版社に
無名のまま自費出版するより、ちゃんとした出版社から本を出した方が人の目には止まる。口では生活費の足しなどと言っているものの、あわよくばベストセラーになって
もちろん、そうなれば
俺はその日の内に出版社の知人に連絡を取ってみた。話をしてみると、どのような形で世に出すにしろ、本にするには写真の質が求められる。まずはサンプルが欲しいと、そこまで話が進んだ。
早速、次の週末に友人の家を
クッキーの空き缶に押し込められた写真の山を想像していたが、意外に管理はしっかりとしていて、紙の写真は日付と共にアルバムに保存され、デジタルカメラを握ってからの写真は、外付けハードディスクに整理されていた。見る限り、画質も悪くない。
カメラを見せて貰うと、型は古いが、大手メーカーの一眼レフで、プロも使っているものだと
微笑ましい親子関係はさておき、俺には写真の良し悪しが分からなかった。
ひとまず、二十枚ほど自信作を選んでもらい、その場で出版社の知人に送った。忙しいだろうし、写真の確認には時間がかかるだろう。こちらも急いではいないから無理のないようにと、メールの
とりあえず、一週間ほど返事を待つことにして、その日はそのまま友人宅で飲むことになった。
「しかし、よくあれだけ撮りましたね」
ほどほどに酒も回ってきたところで、友人の母親に話を振った。
アルバムは押し入れ一つを埋め尽くす量があり、データの写真は1テラバイトに迫る。中には、オーロラを撮ったものまであった。
今でこそ足腰が弱って遠出をしなくなったが、若い頃はかなり熱心に飛び回っていたそうだ。友人の母親は
「お恥ずかしいです。実はこれ全部、撮り損ないなんです。私が撮りたい写真はたった一枚。それが撮れずに今日までずぅっと、運も才能もないのに、無駄な努力を続けてしまいました」
それは昔々、彼女が母親になるより十年は昔。まだ学生だった彼女は、とある夜に両親と
9月の
何の
彼女は『それ』を写真に収め、永遠に記録したいと強く思った。しかし、当時の世にスマートフォンがあるわけもない。『それ』は彼女の目と記憶だけに残った。
彼女が写真を撮るようになったのは、それからだそうだ。
一度はプロの写真家を目指すことも考えたが、才能が無いことは自覚していた。だから保育士の道を進み、写真は趣味にして、休みの度に記憶の中の感動を追いかけたそうだ。
山へ行き、海へ行き、時には国境さえ超えて追いかけ続けた。
そうして数十年、彼女はまだ『それ』と再会していない。押し入れ一つと1テラバイトのハードディスクを埋める数万枚の写真が、その証拠であり、彼女の
「私にとって、あの出会いは一生に一度限りのものだったのでしょう」
と、彼女は言う。「でも、楽しかった」と、朗(ほが)らかに笑った。
この先、自分はますます弱っていく。そうならない為にも写真は続けるが、残り半分もない人生で、もうあの時の感動に再会することはないだろう。
見間違いだったと言わざるを得ない。彼女自身もそれは分かっていたのだろう。それでも、追いかけ続けた日々が楽しかったなら、彼女にとって、価値はあったのだろう。
数日後、出版社の知人から連絡が返って来た。写真集としては出せないが、クリエイター向けの素材集であれば
それを友人親子に伝えると、それでかまわないと返事があった。
彼女の軌跡(きせき)は、「写真素材集、夜空」として、世に出回ったらしい。初動の売れ行きは上々で、継続的な利益が見込めるそうだ。
友人親子はお礼がしたいからと、俺を食事に誘ってくれた。せっかくだから、行きたい店があれば高級レストランでもかまわない、と言ってくれたが、そこまでして貰うのは心苦しいと断って、その週末の夜に安い居酒屋で飲むことにした。
彼はタブレット端末を店に持ち込み、電子化された写真素材集を見せてくれた。
酒を飲みながら一枚一枚スクロールし、切り取られた風景を目で楽しみ、「期待はするな、なんて言って悪かった」と彼に謝った。彼は
奇跡か見間違いかなど、些細なことだった。我が目で見た感動を追い掛け続けた彼女の信念には、世に認められる価値があったのだ。
予定では来ると言っていたはずだが、どうやら家を出た途端に空を見上げ、これは
「相変わらず、たくましい」と二人で笑っていると、タブレット端末に彼女からのメールが入った。
餅つきをする兎がくっきりと見える、見事な満月だった。
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