第五話 札宿の女将
また、腹の虫が鳴った。
通りのざわめきにかき消されると思ったが、隣を歩く六の耳には届いていたらしい。横目でこちらを見て、穏やかに言う。
「伽耶さん、ひとまず宿へ戻りましょう。朝からほとんど口にしていませんからね」
「……はい」
気づけば足は自然と宿の方へ向かっていた。昨日一泊した宿だが、まだ「主人」と呼べる人には会っていない。顔を合わせたのは、手伝いをしているという長男の太郎だけだった。
格子戸をくぐると、炊き立ての米の匂いが迎えてくれた。腹の虫がさらに大きく鳴る。太郎が「お帰りなさい」と顔を出し、奥へ声をかけた。
「母上、客人がお戻りです!」
ほどなくして、年の頃四十前後に見える女が姿を現した。髪はきちんと結い上げられ、瞳は強さと温かさをあわせ持っている。
彼女は私を一目見て、わずかに息を呑んだ。
「……あなた、
「えっ……」
思わず声が裏返る。――また知らない言葉だ。現世? なにそれ?
女はすぐに笑みを整えたが、その瞳には驚きと懐かしさが混じっていた。
六が静かに頷き、私の肩に手を置く。
「こちらが、この宿の
説子――。
その名を口にした六の声音は、どこか特別な響きを帯びていた。
説子は私をじっと見つめる。その眼差しは、何かを確かめるようでいて、けれど優しさを失ってはいなかった。
「……ごめんなさい、驚かせたわね」
説子は小さく息をついた。
「でもね、あなたを見た瞬間にわかったの。その格好、現世の物。だから私と同じ匂いがするって」
「同じ……?」
私の声は震えていた。六は何も言わず、ただ静かに立っている。
説子は膝を折り、私と目線を合わせる。
「二十年前、私も現世からここに来たのよ。気づいたら、見知らぬ山の中に立っていてね」
「……え……」
この人、何を言ってるの……?
けれど、その言葉に胸がざわついた。
説子は遠い目をして続けた。
「妹の誕生日に、少し背伸びしてプレゼントを買った帰り道だったの。白いワンピースと靴を買ってさ、駐車場を歩いていたら……車が迫ってきて。避ける間もなく、気づいたら山の中だったのよ」
淡々と語られる記憶は、まるで昨日のことのように鮮やかで、聞いている私の背筋を冷たくした。
「最初は夢だと思ったわ。けど、携帯は圏外だし、日はどんどん沈んでいく……。途方に暮れて歩いていたら、熊に出くわして腰を抜かしたの」
説子は苦笑を浮かべ、しかし目はどこか遠くを見つめていた。
「そんな時、“あの子”に助けられたんだよね……」
「……あの子?」
思わず聞き返すと、説子ははっとして口をつぐんだ。
「あ、ごめん、話しすぎたね。まずは飯の支度をするから、上がって待ってて!」
何を言っているのかよくわからない。
けれど、話し方からして――この人は私を理解してくれている。
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