愛された命
野梅惣作
前編
俺の実家は、町外れの小さな寺だった。
朝には鐘の低い音が腹の底に響き、夕暮れには線香の煙が境内に漂った。
夏は蝉の声に混じって読経が流れ、冬は木魚の乾いた音が凍った空気に溶けていく。
俺はその中で育った。
父は真面目な男で、体が大きく、声は低く太かった。
父はよく言った。
「人は必ず死ぬ。その時に誰かが寄り添わなきゃいけないんだ。
そんな仕事を、俺はお前に継いで欲しい」
その言葉が嫌でたまらなかった。
死に縛られ、義務を押し付けられているみたいで。
俺はまだ遊んでいたかった。もっと笑いたかった。
夜の繁華街を歩く同年代の連中の方が、よほど輝いて見えた。
十代の終わり、俺は家を飛び出した。
「供養なんて古臭い」「坊さんなんてダサい」
玄関を蹴飛ばすようにして、二度と振り返らなかった。
けれど、行く宛はなかった。
適当にバイトをして、家に帰れば動画サイトを見ながら寝転んでいた。
そんな生活をする日々に嫌気がさし、
自分のアイデンティティを活かした何かできないかと考えた。
俺が選んだのは、心霊系の配信者だった。
供養を拒んだはずの俺が、カメラを通して「死」と「怖さ」を売り物にする。
矛盾している。けれど、それで再生数が稼げるなら十分だ。
俺はそう思い込むようにして、日々を埋めていた。
---
家出してから一年が過ぎた。
心霊系配信者「寺生まれのタク」は、ここ一年ずっと伸び悩んでいた。
登録者は止まり、案件は来ない。
再生数のグラフは、ゆるやかな下り坂を描いたまま固まっている。
「モラルより数字が大事」。
そう言い聞かせる回数が増えた。自分で自分が嫌になるくらいに。
夜更けの画面に、コメントが流れていく。
《廃病院編、期待》
《ついに来たな》
《ガチでやばいってそこ》
《場所どこ?》
《言うな、ガチのやつは言うな》
《前回の動画、鳥肌立った!》
《ここは地下がやばいよ》
《生きて帰れよw》
コメント欄は、いつも通り茶化しと期待と脅しで埋まっていた。
俺はそれを読み上げながら、指を鳴らした。
心霊スポットは数多く巡ってきた。
トンネル、廃墟、墓地。
怖い思いもしたが、それは全部“ネタ”になった。
恐怖は再生数に変換される。
そうやって俺は生き延びてきた。
だが、この病院だけは避けてきた。
噂は、ありふれているようで異様だった。
――地下にホルマリン漬けの赤ん坊が置き去りにされ、夜ごと泣き声が響く。
冗談みたいだ。
だが、数年前からこの噂は囁かれてきた。
近隣の心霊好きは口を揃えて「あそこだけは行くな」と言う。
だからこそ、俺は画面のコメントを無視できなかった。
(数字が欲しい。
モラルよりも、今は数字の方が大事だ)
そう心の中で繰り返しながら、俺は夜の街を車で走った。
カーナビに表示される赤い点が、まるで俺を引き返せない場所へ誘っているように見えた。
---
病院の外観は、噂どおり朽ちていた。
壁の塗装は雨に削られ、灰色の筋を垂らしている。
看板は半分以上の文字が剥がれ、残った部分だけが風にきしんで鳴っていた。
フェンスに空いた穴から体を滑り込ませると、錆の匂いが一気に鼻にまとわりついた。
「……さて、伝説の廃病院。今日はここに潜入します」
カメラに向かって声を張った。
配信者としての調子を崩さぬよう、わざと明るい声色を作る。
懐中電灯の光が床を這う。
散らばったカルテ、割れた薬品ボトル、ナースステーションのカウンター。
カビと薬品の混ざったような匂いが、壁の隙間からしみ出していた。
「なんだよこれ……」
思わず本音が漏れそうになり、慌てて実況口調に戻す。
「おぉっと! 皆さん見えますか? カルテがまだ残ってますね。
うわ、名前が書いてある……」
コメント欄が流れる。
《読め!》
《やめとけ!呪われる》
《怖すぎw》
俺は笑い声を作ってごまかした。
だが、靴の裏でガラス片を踏むたび、金属的な音が反響し、心臓に突き刺さる。
地下への階段が口を開けていた。
上から覗き込むと、冷気が頬を撫でる。
鉄の手すりは赤錆でざらつき、手のひらに粉がこびりついた。
一段降りるごとに、足音が辺りに響いた。
踊り場の埃が舞い、懐中電灯の光の中で雪のようにちらつく。
その時だった。
「……オギャァ……」
遠い声。
赤ん坊の泣き声だと気づいた瞬間、全身の毛穴が一斉に開いた。
心臓が跳ね、呼吸が止まる。
足を止めても声は止まらなかった。
むしろ進むほどに、大きくなる。
(これは……限界ラインを越えてる)
喉の奥でそう呟いた。
実況口調はもう出なかった。
俺は配信を切り、懐中電灯を握ったまま駆け出した。
階段を駆け上がり、外へ飛び出す。
フェンスを抜けた時、肺は焼けつき、呼吸は言葉にならなかった。
その夜の動画は、異様な再生数を叩き出した。
だが背中には、冷たいものがずっと貼り付いていた。
------
廃病院の出来事から数日が経った。
いつものような日常。
今日も心霊スポットに向かい配信し、何も起きずに帰る。
あの日の出来事は気のせいだったのだろうか――そう思うようになっていた。
帰宅してシャワーを浴び、ベッドに倒れ込む。
暗い天井を見上げる。
耳の奥では、まだあの声が小さく鳴っている。
ピロン♪
スマホに、見知らぬアカウントからのDMが届いた。
《こないだの配信、見ました。
私もあの廃病院に連れて行ってください》
一瞬、画面を閉じそうになった。
あんな思いは二度としたくなかったからだ。
背中に貼り付いた冷気は、まだ消えていなかった。
だが、再生数のグラフが頭に浮かぶ。
あの回だけ、跳ね上がっていた。
久しぶりにコメント欄が沸き、登録者も増えた。
「二人で潜入」――それだけで、もう一度数字は動く。
何より、若く美しい女性のアイコンが目に焼きついた。
笑顔に見える写真。だが、どこか影が差しているようにも見えた。
正直、俺は迷った。
だが迷いは長く続かなかった。
(やるしかない。
ここで止まったら、俺はまた沈む)
俺は返事を打ち込んだ。
《分かりました。
一緒に行きましょう》
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