如月の栞

宮滝吾朗

第1話 如月の空に還る

着陸態勢に入ったとのアナウンスが流れたとき、僕はMacBookをぱたんと閉じて、機内のざわめきから少し身を引いた。

福岡行きの機内は意外に静かで、揺れもなく、それゆえに僕の思考だけが取り残されたようにぽっかりと浮いていた。


2026年、春。

WEB制作会社のチーフディレクターという肩書きのもと、クライアントとのミーティングに出向き、プロジェクトの進行管理や要件の調整、現場の火消しなど、そういった仕事の多くを、プロフェッショナルという言葉でうまくラッピングして暮らしている。

Slack の通知音と Zoom の会議に追われる毎日。

若い部下たちが AI ツールを使いこなすのを横目に、「昔は全部手でやってたんだ」なんて口走りそうになるのを必死に飲み込む。

定職があり、家庭があり、食べるものに困らず、誰かにとっては「頼れる仕事人」であり、別の誰かにとっては「時代遅れの人」だったりする。

妻とは仲良くやっているが、子どもたちはもうそれぞれの人生を歩き、たまに帰って来て実家のメシを堪能してまた自分の場所に帰っていく。


自分でも、平凡にしては上等な人生だと思う。だがときおり胸の奥で、残り時間を数えるような冷たい感覚が広がることがある。

そんなとき不意に思い出したのは、今とはまったく関係のない、40年前のある風景だった。


きっかけは何だったのか。

CAが配る紙コップのコーヒーの匂いか、前の席のビジネスマンのタイピングの音か、あるいは窓の外に広がる曇り空か。

それとも、その全部かもしれない。


あの頃の、何も知らなかった僕が羨ましいのか?

それとも、あの時置いてきた何かが、今の僕には足りないのか?


とにかく僕はいきなり、記憶の裂け目に落ちた。


◇    ◇    ◇    ◇


1986年、春。

古き佳き80年代、我らが時代。

コンプライアンスでがんじがらめの現代からは及びもつかない、おおらかでパワフルで自由な日々。


僕は18歳で、伊丹空港から宮崎行きの便に乗っていた。

空港のターミナルには床ワックスと売店のコーヒーが混じり合った匂いが漂い、搭乗ゲートへ向かう廊下では、ジェット燃料の甘い匂いが鼻を刺した。

合宿免許で宮崎へ向かう飛行機の中。隣の席では中年の男が「週刊ポスト」を広げ、その斜め前では修学旅行帰りらしい高校生の団体が、興奮気味にお菓子の袋を破っていた。


あのとき僕は「やれやれ」と心の中でつぶやきながら、2本目の煙草に火を点け、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』のペーパーバックを読んでいた。

シートポケットには、スチュワーデスが配ったプラスチックのカップと小さなピーナッツの袋。窓の外にはまだ冬の名残を抱いた山並みが広がり、その向こうには霞んだ海が光っていた。


大学への進学が決まり、高校の卒業を控えたこの時期に、卒業旅行がてら運転免許取得を目論んでいた。

進学先は京都の私立大学。

出町柳にある古びた下宿屋に部屋を決め、まだ家具もない畳の上で「これから始まる新生活」を思い描いた。

僕を甘やかすことに喜びを感じているフシのある両親は、免許を取ったらすぐに入学祝の車を買ってやると約束してくれた。

父は「せっかくだから大きめのを」と言い、母は「無茶はしないでよ」と口を尖らせた。

僕はそのやりとりを「やれやれ」と受け流しつつ、心の奥では悪くない気分だった。


新生活に向けて膨らむ希望とは裏腹に、この合宿免許への参加には正直うんざりしていた。

話に聞く退屈な座学や、横柄な教官の実車教習――誰だって歓迎はしない。

「車持ちの大学生活」という輝かしき未来のために我慢すべき通過儀礼。それが僕の認識だった。

ましてや知らない土地での合宿。どうせメンバーは田舎のヤンキーばかりに違いない。

誰かとつるむ気力もなく、僕は飛行機の座席に沈み、ひたすらホールデン・コールフィールドのぼやきに耳を傾けていた。

──もっとも、本当に耳にしていたのは、ウォークマンから流れるカセットの音だった。

チェット・ベイカーのトランペットが、機内のざわめきとは無関係にクールに響いていた。

活字と旋律、煙草の煙と飛行機の振動。どれもが混じり合って、僕を現実から半歩ずらしてくれる装置だった。


「当機はまもなく宮崎空港に着陸いたします」


アナウンスが流れた。

僕はペーパーバックを静かにカバンにしまい、3本目の煙草の火をもみ消し、シートのリクライニングを元に戻した。

窓の外には、どこまでも青い海と、春霞にかすむ緑の山並みが近づいてきていた。

僕にとって初めての空港だった。


そしてその空港の先に、これから始まる二週間の物語の幕開けが待っていた。

僕の人生で、きっと二度と同じ形では手に入らなかった時間の匂いをまとう女の子の物語。


もちろん、そのときはまだ何も知らなかった。

やれやれ、思い出すには少し早すぎる気もしたけれど、飛行機は着陸を開始した。

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