七話 逃走兵と笑わぬ少年②
ワイェイン立憲君主国インリン・ヒサック線
戦場において殺した魔物を放置することは極力避けたいものだった。不自然に殺された魔物、それはこちらの活動を敵にバラすこととなり、警戒度を引き上げられる。最悪向こうから積極的に探す動きが見られ、少数精鋭による隠密行動のメリットが消える。
それゆえ、インガは素早く目的地へと向かう。片方の魔物は放置でいいだろう。魔物同士の争い、その結論でも十分に片付けられる程度の乱戦で勝負がついた。しかしもう片方は不自然に切り裂かれ、ところどころ焼けただれていた。普通に考えたら武器を持った人の仕業だ。
腐食動物が掃除してくれていたら放置できるが、そう早く食べには来ないだろう。あれほど凄惨に殺された上位種の魔物がいれば、他の魔物や動物は警戒を怠るはずが無い。
そして今、死体を放置した方角にもう一つの魔力波が引っかかった。単独行動らしきその反応は、周辺に住むどの腐食動物の生態とも合わない。
…見つかったと見ていいだろう。
一気に進行速度を落とし、警戒を上げる。もうすぐ日が昇るが、まだ自分たちリン族が有利な時間は続く。そう言いたいところだが、残念ながら自分は白銀であり、夜間の隠密行動には向いていない。
逆探知されないよう能動探知は当分の間封印し、接近を試みる。相手の魔力反応は強まっていき、勘違いか幻想といった微かな希望が打ち砕かれる。
口止めするべきだろうか。いや、偵察している敵兵を消せばそれは周辺にいますと宣言しているようなものだ。そこに倒れているヘンヴェールの所為にする?否、魔物との接敵報告を普通はするはずだ。そのような報告は敵はしていない。
そもそも、もう手遅れである可能性だって考えられる。既に報告が入っていた場合、この推定偵察兵を殺めるという手は至急サキラに報告して撤退することが可能である以上悪手だろう。
気持ちを落ち着かせ、インガは慎重に観察に適した影に紛れ込む。音は絶対立てないように、そして匂いで警戒されないよう向かい風になるように。少しでも情報を掴んでから帰りたい。
※
目の前に横たわる魔物はまるで生きているかのような凶暴な見た目だった。食物連鎖の頂点に君臨する、長く鋭い牙を持った猛獣。正常な状態であればその死体を見ても警戒するものだろう。仮に今飛びかかってきたら餌になる以外の選択肢が消えるような間合いには間違っても入らないだろう。
それだけでは無い。明らかに魔法攻撃と凶刃によってボロボロになったその死体、犯人は魔物では無いことは自明であるはずだ。その素性が分からないにも関わらず、ここに居残る者は知能が著しく低いか自殺願望があるかのどちらかだろう。
正常では無いユィンヒは身を隠すという選択肢を取らなかった。厳密に言えば、炎魔法で焼かれた魔物の肉の匂いで食欲を刺激された空腹に苦しむ少女にとって近寄る以外の選択肢が思い浮かばなかった。生命活動に支障が出ているほどの危機的状況に陥れば判断能力が著しく落ちるのは致し方ないだろう。
どれだけ放置されたかも分からない、馴染みの無い魔物の肉。まともな選択肢があればまず食べることは無いのだが、生憎と目の前にあるのはそれだけだった。焼けただれた部位を引き裂き口に入れると、絶望的に食欲をそそらない味が襲うが、それさえ最高の食材に感じられた。
空腹感を緩和すること以外頭に無いユィンヒは、彼女をじっと見つめる視線にも、草むらから出てくる存在にも気がつくことは無かった。
※
自分が殺したヘンヴェールの横にしゃがむ帝国兵。インガは彼女を観察していく中、強張った身体が緩んでいくのを感じた。太腿には痛々しい傷があり、痩せたその兵士はどう見ても任務の為魔物を観察しているわけでは無さそうだった。
インガは接触を試み、見える場所に出る。負傷した兵士は警戒する余裕さえ残っていないのか、一切気にすることなくヘンヴェールの肉を小さく引き裂いて食べていた。
「Verhsher inrgh yeaferh irsht?」
焼いたら?そう尋ねてみると相手はビクッと全身を強張らせ瞬発的に振り向いた。相手にこちらを害する力は無い。それが分かったインガは自然と帝国兵の近くまで行き、肉を切り取って魔力を流し、それを構成する粒子にエネルギーを与える。
相手はそれを見て、何か気づいたような顔をした。どうやら帝国での炎魔法の理解は自力で応用できるほど高くは無いようだが、こちらの応用技術を見て理解できる程度ではあるらしい。内心閃きを与えた事に後悔を覚えたが、相手の余りにも哀れな状態を再認識して特段影響がないという結論に至った。この状態で帝国に戻ることはできない。その前に魔物に狩られて死ぬだろう。
「Zveix kurhmier.」
焼いた肉を差し出すと、相手はまだ警戒を解いていないことが分かる引き攣った笑みで首を横に振る。
「自分でやります。」
国際補助語話者だった。そうであれば最初からそっちで話せば良かった。無駄に脳のリソースを使ってしまった上に、リヴァル語を理解しているという、隠しておけば有利な情報を開示してしまった。昔の自分の人格、それはやはり邪魔以外の何でもない。同情心から負傷した敵を安心させようとして貴重な情報をバラすなど、兵士失格だろう。
その自己嫌悪を押し除け、強引にその肉を押し付ける。
「その状況で体力使って何がしたいの。食べろ、これは命令。」
相手は慎重にその肉を手に取った。まるで毒を触るかのように。彼女はそれを口にしようとしない。ため息を吐いてインガはそれを一部引き裂き、自分の口に入れて咀嚼した。
まったく、負傷しているとは言え敵であるのだ。本当に自分は何をしているのだろうか。そう思いつつも、相手に改まって向き直った。軍服の袖には模様が入っている。通信兵科の士官、それを示す模様だ。
「通信兵さんの名前は?僕はハンロ・インガだよ。」
「ヨーヴァ、ユィンヒ・ヨーヴァ…なぜ私が通信兵だと?」
相手、ユィンヒは訝しげに見つめてくる。
「服装。」
「…え、」
「あー、メイッツ戦、君たちならマイツァー占領って認識になるかな。それが僕の初陣。」
彼女はそれだけで察したのか、気まずそうに目を逸らした。またこれかと、何度目か分からない子供と勘違いされていた事実に内心頭を抱える。
「…君主国では学生も動員されるのですか?」
前言撤回、現在進行形でガキ扱いされているらしい。間違えられてもおかしくない体格であるとは自覚してはいても、12歳未満と認定されることは18歳としては傷つく。
「ん、成人。前線に送られた時は違ったけど。義務教育は終えてた。」
「…失礼しました。」
ばつが悪そうに魔物の肉を食べるユィンヒを横目に、インガは素早く毛皮を剥ぎ、皮下脂肪や筋繊維を雑に削ぎ落とした。手抜き処理で、すぐ腐るだろうが長く保つ必要はない。捕虜の事情説明が終わるまでの時間稼ぎに過ぎない。
「ヨーヴァさん、そっちが気にしないならこれから仲間のところに連れて行くけど、捕虜として丁重に扱う保証はできないから。逃げるなら今だよ。」
しかし、彼女は逃げることはなかった。少し震えていたが、深呼吸と共にインガの方に向き直った。
「従います。連れて行ってください、お願いします。」
※
死んだ魔物の毛皮は血と獣臭がする上に脂質やら残った血やらが滲み出てくる、とてつもなく不快な物だった。今すぐにでも脱ぎ捨てたいところだったが、ユィンヒはその衝動を抑えた。
そそくさと先を歩く、子供にしか見えない推定パルチザンはその容姿に似つかわしくないほど淡々と毛皮の必要性を説いてきた。帝国兵であることは軍服が故に遠目からでも分かるが、その人物が無害かどうかは分からない。そして残念ながらインガは仲間が警戒網を展開していないとは断言できないらしい。発見された場合、確実に狙撃される。
不快感を耐えつつ、インガの速いペースについていくことで精一杯だったからか、その会話も何もない状況に気まずさを覚える暇もなかった。
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