12.後腐れのある人

 ひとしきり涙を流したあとで、名雲は真っ赤になった目を上げ、気まずそうに囁いた。

 

「……ごめん」

「いいえ。俺の方こそ、込み入ったことを聞いてしまってごめんなさい」


 落ち着いたならと体を離そうとすると、名雲は引き留めるように腕に力を込めてきた。


「名雲さん?」

「続き、しないか。それとももう、そんな気分じゃないかな」

「そんなことはないですけど……、でも、今日じゃなくてもいいですよ」

「今日がいい。今がいいんだ」

 

 泣き腫らした目を困ったように泳がせながら、名雲は懇願の響きを込めてぽつりと囁く。


「君に触ってほしい。嫌でなければ」

 

 頼りなく宙をさまよった名雲の手が、和泉の手に重なる。しっとりと湿ったその感触を意識した瞬間、体がカッと熱くなった。


「嫌なはずがないじゃないですか……っ」

 

 自分と同じ香りの髪に口付け、涙に濡れた頬をそろりと撫でる。肌を唇で辿るたび、先ほどまではうつろに宙に向けられていた名雲の視線が、時折掠めるように和泉を撫でてくれることが嬉しかった。

 従順に刺激を受け取る名雲の体を、和泉はゆっくりと時間をかけて暴いていった。久しぶりだと言っていたから加減した方がいいかとも思ったけれど、多分、名雲が求めているのはそういうものではないだろう。

 痩せた体は抱きしめると骨が当たって痛かったけれど、うねる体内の熱さは相手が誰でも変わらない。それなのに、自分の腕の中にいるのが名雲なのだと思うだけで、どうしようもなく興奮した。

 呻き声に似た低い喘ぎに耳を傾けながら、和泉はただひたすらに、あの日自分がしてもらったことを名雲に返す。裸になって、欲も衝動も何も隠さず、興奮の印で互いの体を汚すことを繰り返した。



 事が済んでひと眠りした後は、順番にシャワーを浴びて、いつも通りに床の布団とベッドに分かれて横になる。普段なら家主の和泉がベッドを使うところだけれど、名雲には散々好き勝手させてもらったし、寝る前に仕事のメールの返事もしたかったので、半ば無理やりベッドの使用権を名雲に譲り渡した。


「そのタトゥー」


 パソコンの前に座る和泉を見ながら、気だるげに名雲が口を開く。泣き腫らしてひどいことになっている目は、まっすぐ和泉の鎖骨を見つめていた。


「羽根のタトゥー? えらく厨二っぽいものを入れたんだね」

「今さら気づいたんですか」

「目には入ってたよ。興味がなかっただけ」


 ひどいことをさらりと言って、名雲は意地悪く口角をつり上げる。

 

「髪の色は明るいし、ピアスも痛そうなくらい開いてるし、極めつけにそれだもんね。典型的な大学デビューだ。和泉くんは形から入る方?」

「そうですね。昔俺の金を盗っていったチャラい人がそんな感じだったので、その影響かもしれません」


 淡々と言い返すと、名雲は面白くなさそうに唇を尖らせた。


「和泉くんはかわいげがなくなった」

「すみません。逆に名雲さんはかわいくなったと思いますよ。もう少し肉がついたら言うことなしです」

「おかげさまで今順調に戻ってきてるところだよ。年下のくせして本当にかわいくないな」

「なら同期になりますか? 俺が先輩でもいいですけど。そうしたら俺がかわいくなくても文句ないでしょう」

「はあ?」


 意味が分からないとばかりに、名雲は眉根をぎゅっと寄せる。そんな名雲をちらりと見やって、和泉は言うタイミングを見計らっていたことを、できる限り何でもないことのように伝えることにした。


「名雲さんが中退しなくちゃいけなかったのは、お母さんの容態が悪くなったからですよね? 正当な事情があっての中退なら、再受験しなくても再入学できるみたいですよ」


 和泉の通っている大学は、中退してから四年は再入学を受け付けている。事務にも聞いて確かめたから、間違いない。


「再入学……?」

「普通の生活がしてみたいってさっき言ってたじゃないですか。最後の一年、俺と一緒に大学に通ってみませんか」


 ミチ先輩も卒業してしまったことだし、寂しいなあとは思っていたのだ。


「名雲さんは成績優秀だったって聞いてますし、座学の卒業単位はもう揃ってるんでしょう? 就活したければまたすればいいし、そうじゃないならまあ、のんびり一年――いえ、半年? モラトリアムしましょうよ。書類は一応もらってきてあるので」

「ちょ、ちょっと待ってよ」


 焦ったような声に顔を上げると、名雲がベッドから半身を起こしてこちらを見ていた。

 瞳がゆらゆらと揺れている。まるで迷子になった子どものような顔だ。


「そんなこと、本当にできるのか……?」

「できますよ。一緒に住むのも、それなら別におかしくないですよね。どうせ同じ大学に通うんだし」


 ゆくゆくは一緒に住んで当然の間柄になりたいものだが、とりあえずの口実にはちょうどいい。そう思って言ったのに、しばらく黙りこくった名雲は、声もなくはらはらと涙を流し始めた。

 苦笑しながら、和泉はティッシュをそっと差し出す。

 

「大丈夫ですか? 今日の名雲さんは泣き虫ですね」

「ああ、うん……。なんか、そんなこと考えてもみなかったからさ……。涙腺がおかしくなってるな」

「調子が悪いなら、無理しなくていいですよ。ただ、そういうこともできるって一応知らせておきたかったんです。ゆっくり考えてみてください」

「ありがとう。考えてみるよ。ああ、でも――」


 と、そこで名雲は苦しげに顔を曇らせた。先ほどの身の上話を聞いたあとだと、なんとなく何を考えているか想像がついてしまう。だから和泉は手元のパソコンを操作して、ひとつの映画予告のトレーラーを再生することにした。

 おどろおどろしい音楽と、緊迫感に満ちた声が流れ出す。名雲は不思議そうに顔を上げた。


「何これ、ホラー映画?」

「はい。原作の小説は俺が書いたものです」

「えっ? 君、いつから小説家になったの」


 よほど驚いたのか、名雲がまん丸に目を見開く。その表情は妙に幼く見えて、とても年上の男だとは思えなかった。

 くすりと笑って、和泉は「デビューしたのは大学二年の時です」と短く答える。


「言ったかどうか分かりませんけど、俺、文学部に入ったんです。親にも勘当されたし、もともと小説が好きだったので、せっかくならやりたいことをとことんやろうと思ってそこにしました。名雲さんが五十万円持って行っちゃったので、その補填も兼ねて賞金の高い賞にたくさん出していたら、たまたま賞を貰えたんです」

 

 数打ちゃ当たるってやつですね。肩を竦めて、和泉は続ける。

 

「ビギナーズラックって言えばいいのか、それが結構売れてくれて……。まあ、一発屋で消えるかもしれませんけど、とりあえず今のところは金に困ってません。親からもらった手切れ金も残ってますし。だから、このままここにいてもらって大丈夫ですよ。授業料も出します」

「いや、さすがにそういうわけには――」

「じゃあ貸します。奨学金を借りるくらいなら俺に借りてください。利息ゼロでお得ですから」


 押しは強いくらいでちょうどいい。困り顔をした名雲は、はくはくと言葉を探すように何度も口を開閉したあとで、やがて意を決したように口を開いた。


「……どうしてそこまでしてくれるんだ。葬式の時も、そこから後も、今だって。俺は赤の他人どころか、弱ってた君に付け込んで散々ヤったクソ野郎だよ? 君の金だって盗んでる。さすがに親切が過ぎるんじゃない?」

「名雲さんがクソ野郎なら、俺はクズ野郎ですかね。家に泊める代わりに体要求してますもんね」

「別に俺、嫌々同意したわけじゃないよ」

「三年前の俺だってそうです。前にも言いましたけど、親切じゃなくて下心なので安心してください。もう一回ヤれたらいいなと思って連れてきましたけど、やってみたら一回じゃ全然足りませんでした。やっぱり俺たち体の相性がいいみたいなので、名雲さんが嫌でないなら、またセックスしてほしいです」


 別にそれだけが理由じゃないけれど、これくらい欲に忠実な方が変な気おくれがなくていいだろう。包み隠さず正直に告げると、名雲は思いもかけないことを言われたとばかりにますます目を丸くした。


「本気で言ってる?」

「もちろんです」

「和泉くん、そんなにガツガツしてるタイプだったっけ?」

「はあ、まあ。名雲さんとヤった時が一番気持ちが良かったので、忘れられなくて。今日も気持ちが良かったし」

「ああ、そう。それは良かった……」


 うろうろと名雲は視線を泳がせる。なんとなく沈黙が気まずくなってきたころ、名雲はぼそりと決まり悪そうに呟いた。


「……後腐れのなさそうな人が好きって言ってたよね。後腐れのあるやつは、ダメなわけ?」

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