3.きっと少しは楽になる

「やらせてって……は? 何、言ってるんですか……?」

「あれ? 女の子かと思ったけど、その声、男か。よく見りゃ結構肩幅あるもんな。まあいいや、どっちでも。幸薄そうな子、好きなんだよね」

 

 近くで見ると、男はずいぶんと整った顔立ちをしていた。にこにこと微笑みながら、男は和泉の腕を掴んで、ぐいぐいとどこかへと引きずっていこうとする。

 

「……っ! な、なに……」

「死ぬんでしょう。なら、いいよね」

 

 焦りで舌が回らなかった。見た目どおりに力のある男は、硬直する和泉を半ば無理やり駐車場へと引きずっていってしまう。助手席に押し込まれたところで、ようやく和泉の頭は状況に追いついてきた。

 車に連れ込まれるのはヤバいのではないか。

 思い至るも時遅く、男は当たり前みたいに車を発進させてしまう。

 

「俺、ナグモ。名前の雲って書いて、名雲なぐもね。君は?」

「……和泉」

「和泉医院の息子さんだね。はじめまして。食べる?」

 

 苗字なのか名前なのかも分からぬ名を名乗った名雲は、のんびりとミントのガムを差し出してくる。

 初対面の人間にもらった食べ物など、とてもじゃないが食べる気にはならない。黙ったまま俯いていると、名雲は気にした様子もなくガムを自分の口に放り込み、慣れた様子で運転した。

 止まったタイミングで逃げようと思っていたのに、こういうときに限って信号はどこも緑一択だ。ようやく止まったかと思えば、そこは見覚えのない町中華の駐車場だった。

 

「腹減ってるんだよね。ラブホ行く前に先に飯食いたいんだけど、いい?」

 

 ――ラブホ?

 名雲の中では、いつの間にやら和泉が同意したことになっているらしい。あまりの自由人っぷりに呆気に取られ、言葉を失う。

 いいともダメとも言ってないのにさっさと車を出て行ってしまった名雲は、助手席に座ったままの和泉を振り返るなり、不思議そうに首を傾げた。

 来ないの?

 ぱくぱくと名雲の唇が動くのが見えた。名雲がいないうちに逃げてしまおうかと一瞬悩んだけれど、やっぱりやめた。

 どうせ死ぬなら、と魔が差した。

 どうせ死ぬなら、最後に一度くらい、一生縁のなさそうな人間と関わってみるのも悪くない。行き着く先で何をしようが構うものか。

 自暴自棄になっていたと言われればその通りだ。ただ、名雲のようないかにも怪しいチャラい男を和泉の両親が見たなら、金切り声を上げて引き剥がしに掛かるだろうと思った。そう思うとほんの少しだけ胸がすくような気がして、逃げる気も失せた。

 とはいえ食欲なんてあるはずもなく、回鍋肉ホイコーローとチャーハンをうまそうに貪る名雲の向かいで、和泉はセットの杏仁豆腐をちびちびとつつくことしかできなかった。

 

「腹、減ってないの」

「減ってない……と思います」

「『思います』? 自分の腹事情なのに、変わった言い方をするんだね」


 苦しくなって、さっと和泉は目を伏せた。

 だって、分からない。

 腹が減っているかどうか。体調は良いか悪いか。自分が何をしたいのか、したくないのか。考えるより前に、それらは全部決められていた。自分ではもう、何もはっきりとは分からない。

 ごまかすように、和泉はぼそぼそと言い訳をする。

 

「昨日も今日も、緊張して眠れなかったんです。だから、食べると吐きそうで……」

「ああ。大学受験の結果発表って、今ごろだっけ。なるほどね。頑張ったところに不合格と来たもんだから、死にたくなっちゃったんだ」

 

 そうなのだろうか。

 

「……分かりません」

「そう。いいよ、分からなくて」

 

 適当な人だ。優しいのなんて口調だけで、中身なんてかけらもない。がらんどうの言葉でしかないと、乾いた目を見れば分かる。

 それでも、今はその空虚な優しさが心地よかった。

 食事を終えた名雲は、人気のない道を運転して、宣言通りにラブホテルへと和泉を連れ込んだ。

 

「和泉くん、男とセックスしたことある?」

 

 手慣れた様子でタッチパネルを操作した名雲は、休憩と宿泊の二択の前で、いきなりそんなことを聞いてくる。


「……ありません。男も、女も、誰とも」

「へえ、そう。じゃあ、ゆっくりした方がいいね。宿泊にしておこうか」

 

 興味もなさそうに相槌を打って、名雲は宿泊のボタンをぽんと押す。

 

「行こうか」

 

 有無を言わさず手を引かれる。

 他人と手を繋ぐなんて、いつぶりだろう。子どものころは両親がこうして手を引いてくれたこともあったはずなのに、勉強以外の会話がなくなったのは、いつからだったか。

 さらりと乾いた名雲の手は、思ったよりも大きかった。

 

「名雲さんはゲイなんですか」

「ゲイっていうか、バイだね。幸薄そうな子なら、男でも女でもどっちでもいいよ」

 

 かわいそうでほっとするんだ。名雲はそう呟いて、穏やかに笑った。

 優しそうな顔なのに、言っていることは少し怖い。

 

「なんで俺が飛び込むの、止めたんですか」

「別に止めたわけじゃない。溺死は苦しそうだから、別の方法のほうがいいんじゃないかと思っただけ。和泉くんの不幸そうな顔、好みだし。もったいなくて声掛けちゃった。せっかくなら、俺がもっと気持ちのいい殺し方をしてあげようと思って」

 

 意味が分からない。

 

「殺すって……俺を殺したら、名雲さんが捕まっちゃうんじゃないですか」

 

 足を止めて問いかけると、名雲は吹き出すように笑い始めた。

 

「本気で殺すわけがないだろ。比喩だよ、比喩。オーガズムは小さな死。知らない?」

「……知りません」

「そっか。じゃあ、教えてあげる。きっと少しは楽になるよ」

 

 名雲は艶やかに微笑んだ。にこやかな表情とは裏腹に、その目はひどく冷めていた。

 名雲は和泉が死ぬのを止めてなどくれない。助けてもくれなければ、慰めてもくれない。この男がどんな人間か知らないけれど、なんとなくそう思った。それでもいいかと、名雲に手招かれるがまま、和泉は個室の扉をまっすぐにくぐる。

 

「おいで、和泉くん。風呂、一緒に入ろう」

「……お先にどうぞ」

 

 会って間もない男となぜ風呂まで一緒に入る必要があるのか分からない。ベッドの方へ行こうとした和泉を、名雲は薄く微笑みながら引き止める。

 

「ヤったこともないなら、体の洗い方だって知らないだろ? 気持ち良くセックスするなら、しっかりきれいにしておかないと」

 

 シャワーを浴びるのに洗い方も何もあるものか。そうは思ったけれど、勢いに押されるがまま、いつの間にやら和泉は浴室で裸になっていた。

 一足先に体を洗い終えた和泉は、溜まりかけた湯舟に身を沈めながら、ちらちらと名雲の肢体を観察する。服の上から見た印象通り、名雲の体はよく鍛えられていた。薄っぺらい自分の体と比べると、なんとも情けない気持ちになってくる。

 左目の目元には泣きぼくろがひとつ。両の耳には、無数のピアス跡が残っている。鎖骨のあたりに入れられた小さな鳥のタトゥーには、何の意味があるのだろうか。

 涼しげに見える青い鳥には、しかし何か違和感があった。じっと眺めていると、不意に名雲が口を開く。

 

「俺の体、見て楽しい?」

 

 キュッとシャワーを止める音がして、名雲がにやつきながら近づいてくる。

 見ていたことがバレてしまった。気まずくなった和泉は、半分溜まった湯舟の中で、膝を抱えて小さくなる。

 

「和泉くん、細いね。ちゃんと食べてる?」

 

 ざぶざふと無遠慮に湯舟に入ってきた名雲は、当たり前のように和泉の腕を掴むと、自分の膝の間に和泉を座らせ、後ろから抱えるように腕を回してくる。

 

「食べてますけど……わっ」

 

 腹に名雲の腕が回され、引き寄せられる。背中に当たる胸筋は、今まで感じたこともないほどたくましく柔らかい。ぴたりと他人と肌を重なる生々しさに、思わず和泉は息を呑む。

 

「なんだ。和泉くんも男、いけるんじゃん」

 

 芯を持ち始めた和泉の下半身を見下ろして、名雲がくすくすと笑う。

 そんなつもりもなかったのにどんどんと熱を持っていく体が信じられなくて、和泉は「これは……っ」と言い訳にもならない言い訳をぼそぼそと呟いた。

 

「つ、疲れてるから」

「そう? なんでもいいよ。楽しいことはたくさんある方が、人生も少しはマシになる」

 

 名雲の手のひらがあやしく和泉の肌を這う。首元をゆっくりと舐めあげられて、ごまかしようもないほど息が震えた。

 他人にこんな触れ方をされるのは初めてだった。肌を合わせるのも初めてなら、裸で後ろから抱き寄せられるのも初めてだ。ごくりと唾を飲み込んで、そろりと和泉は名雲を振り向く。

 笑みを深めた名雲は、和泉の顎に手を掛けると、当たり前みたいに唇を合わせてきた。

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