ブルー・バードに風切羽を

あかいあとり

1.和泉の秘密

「なあ和泉いずみ。誰にも言えない秘密ってさ、何かある?」

 

 唐突すぎる問いかけに、和泉はぽかんとミチ先輩を見返した。ひとつ上のミチ先輩が大学を卒業するお祝いに、バーでふたり飲みをしている最中のことだった。

 青く染まった刈り上げ髪に、鼻に嵌まった銀輪のピアス。自由でド派手なミチ先輩は、見た目の通り、いつだって心のままに生きている。

 

「言ったら『誰にも言えない』秘密じゃないでしょう」

 

 苦笑しながら、和泉はそっと視線を落とす。

 鏡面仕上げのカウンターテーブルには、困り顔をした自分が映っていた。ハーフアップにまとめた茶髪も、気の向くままに増やしたピアスも、ひとりでいるとそれなりに華やかに見えるはずなのに、ミチ先輩と並ぶと途端に地味に思えてくるから不思議なものだ。

 気を取りなおすように、和泉は鮮やかなターコイズブルーの酒に口をつける。爽やかな口当たりのカクテルは、ブルー・バードというらしい。おいしいけれど、緑がかった青色を見ていると、昔飼っていたセキセイインコのギィを思い出して、ほんのりと苦い気持ちになった。

 ギィは風切羽を持たない鳥だった。大きめのケージに入れられて、逃げないようにと母が丁寧に風切羽を切っていた。

 大人しい性格の子で、呼び鳴きだってめったにしない。それなのに、ちょうどギィが十歳になった日、ギィは一瞬の隙をついてケージから出て、天井近くまで無理やり飛んだ。助ける間もなくまっすぐ落ちて、そのままギィは死んでしまった。

 羽を切る母を止めればよかったのか。それとも隙間なんてないくらい堅く閉じ込めておけばよかったのか。正解なんて分からないけれど、何をすればあのときギィは死なずに済んだのかと、今でも時折考える。

 感傷を振り払うように、和泉はブルー・バードから目を逸らす。隣では、酒の回りきったミチ先輩が、何やら楽しそうに鼻歌を歌っていた。

 

「秘密。秘密。和泉の秘密。何があるかな。軟骨ピアスに失敗したこと。ド下手スタイリングでギトギト髪になったこと。酒飲みすぎてトイレで寝たこと。自主休講ひとつでびくびく怖がってたこと。あとはぁ……」

 

 指を折って羅列されるそれらは、和泉の秘密というより失敗集だ。ミチ先輩には、大学に入学してからの三年間、情けないところばかりを見られてきた。

 

「――秘密って言うなら、やっぱりバイだってことじゃないですか」

 

 ミチ先輩の言葉がひと段落ついたところで、和泉はぼそりと口を出す。聞こえてしまったらしい年配のバーテンダーが、ほんの一瞬だけ動きを止めた。一方で、ミチ先輩は何がツボにはまったのか、「和泉は本当に空気が読めないなあ」とげらげら笑っている。

 

「秘密っていうのは他人が知らないことを言うんだぞ。優秀なのに知らないのか、すぐるくん」

「さっきは言えない秘密を言えって言ってたじゃないですか。……つーか、下の名前で呼ぶのは勘弁してください。嫌いなので」

「ごめんごめん。でも、恋愛のあれこれは人に言えないほどの秘密ではないだろ。俺はゲイだけど、別に隠してないぞ!」

 

 バーテンダーが氷を取り落とす。世代もかなり上だし、身近にマイノリティがいない人なら、まあこういう反応にもなるだろう。

 

「先輩はオープンでも、みんながそうとは限りません」

「そりゃそうだ。隠してる方が色っぽく見えるときもあるし?」

 

 けらけらと楽しそうに笑って、ミチ先輩は演技がかった仕草で和泉の手を握ってきた。

 ボルダリングが趣味ということもあって、ミチ先輩はしっかりと筋肉のついた良い体をしている。見た目だけなら、和泉の好みだ。

 まあ、ときめかないが。

 ミチ先輩と同じくマルガリータを頼んだ和泉は、パッとミチ先輩の手を振り払う。

 

「暑苦しいです」

「ひどいっ!」

 

 言葉とは裏腹に、ミチ先輩に傷ついている様子はかけらもない。

 和泉はミチ先輩をそういう目で見たことはないし、ミチ先輩だってそうだろう。そう確信できる程度には、ミチ先輩は和泉の親しい友人であり、この三年間で誰より世話になった先輩だった。

 酒の飲み方、大学生らしい着飾り方、ボルダリングの楽しみ方に、割りのいい家庭教師のバイト。果てはゲイバーの行き方からセーフセックスの仕方まで。ミチ先輩はありとあらゆることを教えてくれた。彼がいなければ、惰性で入っただけのこの大学で、和泉はゆっくりと死んでいくことしかできなかっただろう。

 ――いや。

 和泉は皮肉気に唇をつり上げる。

 死んでいくという表現は正しくない。だって和泉は――和泉すぐるという人間は、三年前にとっくに一度死んだから。

 

「俺さ、心配なんだよ」

 

 不意に真面目な顔をして、ミチ先輩は和泉の顔を覗き込んでくる。

 

「初めて会ったときから、和泉を見てると、たまにすげえ心配になる。そういう顔、たまにするだろ」

「そういう顔って?」

「明日には死んじまいそうな、どこかにふーって飛んで行っちまいそうな、そういう顔だよ。俺がいなくなっても、本当に大丈夫なのかなって心配なんだ。和泉は、俺にとっては一番仲良しの後輩だし、なんなら後輩どころか、この大学で一番仲良しの友だちだからさ」

「ボルダリング仲間ですもんね」

 

 週三でボルダリングジムに付き合えるのなんて、それこそ自分のような無趣味の暇人くらいだろう。そう思って茶化したのに、ミチ先輩はにこりともせず、「ボルダリングがあってもなくても、大事な友だち」とはっきり言った。

 

「……光栄です」

 

 視線の強さに押し負けて、和泉は気恥ずかしさに目を泳がせる。

 大学に入るまで勉強一筋だった和泉には、友人なんていなかった。クラスメイトと放課後に遊ぶことも許されなければ、成績の良くない人と関わることさえ、親が許してくれなかったから。

 目を逸らすことさえ許してくれないミチ先輩は、ますます身を乗り出すと、こちらの心を見透かそうとするみたいに、じいっと目を細めた。

 

「和泉はさあ、ずっと何か悩んでるだろ。や、悩んでるっつーか……抱えてる? どうせ俺、来週には引っ越しちゃうしさ。ついでに話してみない?」

「何のついでですか」

「話のついで。引っ越しついで。何でもいいけど、人に話して楽になることもあるじゃん? 俺、口は堅いほうだよ」

「知ってます」

 

 どうしようかな、と考える。ミチ先輩は適当だけど、優しい人だ。何を話したとしても、和泉が望む通りに深入りはせず、きっと笑い飛ばしてくれるだろう。

 誰にも話したことのない秘密は、たしかにある。和泉にとっては苦く甘い不思議な思い出だけれど、他人にどう聞こえるかは分からない。

 でも、もういいかな、と思った。

 ミチ先輩の言う通り、人に話して楽になれるのなら、その方がいいのかもしれない。ずっと忘れられない記憶をひとりで抱え続けるのは、それはそれで苦しいものだ。

 腹を決めた和泉は、マルガリータのグラスについた塩をそうっと舐めて、ゆっくりと語り始めた。

 

「俺、二浪してるって話したことありますよね」

 

 ミチ先輩は無言で頷いた。

 この話を誰かにするのは、二回目だ。

 

「東大の理三に落ちて、予備校に二年間通ってたんです。親がどうしても東大に入れってうるさくて、ほかの大学を受けるのは許してくれませんでした。結局、三回受験しても合格できませんでしたけどね」

 

 ――このできそこない! 中学受験も失敗したのに、大学まで失敗するの⁉︎ あなたなんて私のすぐるちゃんじゃない!

 三年前に聞いた母の金切り声を思い出し、ずくりと胸のどこかが痛む。縁を切ってからもう三年も経つのに、まだ痛む心が残っていたことに、少しだけ驚いた。

 

「三年前、大学受験に三度落ちた日に、俺……死のうとしたんですよ」

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