第十三話「告白の夜」
午後一時。
都心の洒落たレストランのテラス席で、黒井隼人は恋人と向かい合っていた。陽光に透けるグラスの赤ワイン。皿の上では繊細なソースに彩られた鴨肉が冷めてゆく。彼女は柔らかな笑顔を浮かべていたが、黒井の眼差しはそこに熱を帯びていなかった。
彼はただ、この会話を終わらせるために座っていた。
「別れてほしい」
唐突で、冷え切った言葉だった。理由など口にする必要もない。ただ、彼女を殺すわけにはいかない、という一点だけが動機だった。彼女の家柄を思えば、消えた瞬間に騒がれ、即座に追及が及ぶだろう。だから、殺せない。ならば捨てる。ただそれだけだ。
彼女の目に大粒の涙が浮かび、嗚咽が漏れる。声はすぐに周囲の耳目を引いた。食事中の客がこちらを振り返り、従業員が慌てて近寄ろうとする。黒井はそれでも何も感じなかった。
――殺せないから捨てる。それの何が悪い。
ただの不良在庫を処分するような冷ややかさでナプキンを置き、彼女の泣き声を背にして店を出た。
夜の街を歩く。今日はあえて高級車を使わなかった。足音とネオンの光が孤独なリズムを刻む。帰路に差しかかった路地の隅で、ひとりのホームレスがしゃがみ込んでいた。
黒井は立ち止まり、冷ややかな微笑を浮かべる。
「働き口が欲しいか?」
偽善を装った声。救いを差し伸べるふりをして、奈落へ突き落とす計画。その瞬間にこそ、黒井は自らの邪悪さを完成させたかった。
しかし、ホームレスは歓喜に顔を歪ませ、黒井の仕立てのスーツに縋りついた。安物の爪が布地に食い込む。
黒井の表情が一瞬にして豹変する。
激昂の炎。
コートの内側から引き抜かれたのは、日本では手に入らぬはずの拳銃だった。冷ややかな金属の質感が月光を反射する。
引き金に指をかけた瞬間、背後から甲高い声が響いた。
「何やってるの!やめなさい!」
振り返ると、通りがかりの老女が、怒りと恐怖をないまぜにした眼差しで黒井を睨んでいた。
黒井は微塵もためらわず、銃口を向け、一発で脳天を撃ち抜いた。
血飛沫がアスファルトに散る。老女は糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
青ざめるホームレス。その額にも冷たい銃口が押し当てられ、次の瞬間、轟音が夜気を裂いた。
銃声はすぐに街の警鐘となった。遠方からサイレンの咆哮が迫る。パトカーの赤色灯が交差点を染める。
黒井は冷静さを装おうとしたが、その仮面は長くは保てなかった。
「……チッ」
舌打ちをして走り出す。だが逃げ場は次々と塞がれる。
彼は仲間の所有する高級車の前にたどり着き、必死にドアを開けようとするが鍵はかかっていた。怒りにまかせてドアを蹴りつける。反響する金属音が惨めに響く。
追い詰められた彼の前に、三台のパトカーが横一列に並んだ。
「手を上げろ!銃を下ろせ!」
警官たちが一斉に叫ぶ。だが黒井の指は既に引き金を引いていた。閃光と轟音。
警官の一人が即座に崩れ落ち、二人目の肩を撃ち抜く。
――なぜだ?
黒井の肉体には一発も命中しない。雨あられのように弾丸が降り注ぐのに、まるで見えぬ盾に守られているかのようだった。
「……罪が、俺を避けている?」
理解を拒むような不気味さが胸を満たした。彼は確かに人を殺している。だがその報いは一度も届かない。まるで“罪”という概念そのものが彼を祝福し、回避しているかのようだ。
やがて黒井の銃弾はパトカーに当たり、爆炎が三台を包んだ。轟音と黒煙が夜空を裂く。焼け焦げた警官たちの断末魔が路地を震わせた。
黒井は唇を震わせた。
「……もう嫌だ」
あまりに自分に都合よく転がる現実。その滑稽で不気味な祝福に、彼は吐き気を覚えた。
決意は唐突だった。
「告白しよう」
彼は自分のオフィスへと向かう。すれ違う人々を、片端から撃ち殺しながら。女も、男も、誰一人として生かさない。血の川が通りに広がり、逃げ惑う叫び声が夜を裂く。それでも、銃口を下ろす理由はなかった。
会社のビルにたどり着くと、管理人が蒼白な顔で駆け寄ってきた。黒井は彼の頭を撃ち抜き、倒れた死体を跨いで中へ入った。
自室の机に腰を下ろし、震える手で電話を取り上げる。表示された番号は、社内で唯一「親友」と呼べる男だった。
「頼む……出てくれ」
コール音が続く。心臓の鼓動が異常に早くなる。
やがて無情にも、留守番電話に切り替わった。
黒井は口を開いた。
「やあ、黒井だ……黒井隼人だ」
受話器に、声が吸い込まれていく。
「俺がやった。全部、俺だ。殺してきた、何人も……いや、数え切れない。俺は狂ってる。世界を呪い、世界に祝福されてる。……もう、こんな人生に耐えられないんだ」
声が次第に震え、荒くなる呼吸音が受話器にこだました。
だが黒井は止まらない。言葉を吐き出すことが、唯一の救いのように。
「俺は罪そのものだ。だが、その罪は俺を殺さない。笑って、避けていく。こんな茶番に、もう付き合いたくないんだ……頼む、誰か……俺を裁いてくれ」
黒井は顔を覆った。頬を伝うのが涙か、血の飛沫か、自分でも分からなかった。
電話の向こうは、ただ機械的な無音に支配されていた。
――そして、夜はなお深く沈んでいく。
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