第五話「階層」

午前3時17分。

東京湾の夜は、沈黙すら凍っているような静けさだった。

俺の部屋の床には、静かに横たわるビニールシート。

その中央に、今はもう何の感情も浮かべない**“菊池昭弘”**が、背中を丸めるようにして収まっている。

手足の関節は外した。

血はすべて風呂場で洗い流した。

レインコートは洗濯機で回し、今は乾燥機の中で回っている。

俺の動きには一切の無駄がない。

全ては計画ではなかったが、整っている。

問題は——

ここから、どう外に運ぶかだ。

俺は、バーニーズ・ニューヨークで買った大きなスーツキャリーケースを広げ、

中に身体を“折りたたむ”ように詰めた。

布地の摩擦音と骨の軋みが、部屋の中で微かに重なった。

「お前も、こうして“収まる”んだな」

そう呟きながら、ジッパーを閉じる。

まるで“所有”するように。

コートを着て、キャリーを引いて、エレベーターに向かう。

時計は午前3時46分。

この時間、住人と鉢合わせる可能性は低い……はずだった。

「……あれ? 黒井さん?」

声がした。

女の声。

——中村舞子。営業第二部、30歳。社内では少し浮いた存在。

時折エントランスで挨拶する程度だったが、まさか、こんな時間に出くわすとは。

彼女はコンビニの袋を持ち、明らかに部屋着姿だった。

「えっ、こんな時間にどこかへ?」

「……ああ、ちょっと出張の準備があって」

「大きな荷物ですね」

視線が、キャリーケースに落ちた。

**中には、まだ温度の残る人間の“残骸”**が詰まっている。

「資料と、着替えとか。徹夜になるかも」

「……お疲れさまです」

笑顔。だが、少しだけ首を傾げるその動作に、警戒心を感じる。

エレベーターの中、二人。

沈黙が、ひたすらに長い。

俺の心拍は、少しずつ上がる。

手汗が、ハンドルを濡らす。

“彼女を消すか?”

そんな計算が、一瞬脳裏をかすめたが——それは、愚かすぎる。

ようやく1階に着いたとき、彼女は軽く会釈をして去っていった。

助かった。

だが、ギリギリだった。


——俺の生活は、こんなにも綱渡りだったのか?

キャリーをタクシーのトランクに押し込み、行き先を告げる。

「港区・南青山三丁目、グラン・ラフィネ青山」

目的地は、菊池昭弘の住所。

名刺の裏に書かれていた手書きの住所。

そしてポケットにあった鍵。

到着したそのマンションは、俺のそれより、明らかに格上だった。

エントランスにはホテルのようなコンシェルジュが立ち、

ロビーの照明も、家具の質も、空気の匂いすら違う。

鍵をかざすと、自動ドアが静かに開いた。

——なんなんだ、これは。

28階。

エレベーターを降りると、廊下には絨毯が敷かれていた。音がしない。

ドアを開けた瞬間、空気が切り替わった。

そこに広がっていたのは、完璧すぎる空間だった。

床はオーク材。

キッチンはドイツ製の最新式。

壁には、ジャン=ミシェル・バスキアのリトグラフ。

オーディオはLINN。スピーカーは天井埋め込み式。

そして——ウォークインクローゼットの中には、俺よりも高価なスーツや靴が並んでいた。

「……どういうことだ」

唇が乾く。

財布を開ける。

カードはプラチナ。しかも外資系のブラックカード。

冷蔵庫の中には、カビのないチーズと開封されたままのボトルが並んでいる。

この部屋は、“菊池昭弘”のものだ。

間違いない。

だが——俺よりも“上”だ。

住まいも、物も、空間の格も。

俺が「選んでいる」と思っていたものが、菊池にとっては日常だったのか?

喉の奥が詰まる。

俺はキャリーをリビングの中央に置き、

一歩、二歩と部屋を歩き回る。

ソファに腰を下ろす。

レコードラックには、俺の持っていないUK初版のスミスのLPがあった。

それを指先でなぞったとき、全身に震えが走った。

「お前は……俺より、“上”だったのか?」

その問いに、返事はない。

だが、袋の中の“菊池”は、黙ったまま、まるで笑っているようだった。

外では、朝の光が東京を白く照らし始めていた。

俺は立ち上がり、クローゼットの中にあったレインコートを手に取った。

ブランドは同じ。でも、サイズが……俺よりワンサイズ“上”だった。

そして、俺は気づく。

——俺が殺したのは、人間ではないのかもしれない。

それは**「階層」だったのかもしれない**。

けれど、階段はどこまでも続いている。

そして、俺は今、その“下”にいる気がしてならなかった。

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