第二話「静かなる爆発」
地下鉄・日比谷線の銀座駅に入る瞬間、ひんやりとした空気が肌にまとわりつく。
朝の7時55分。
平日この時間帯の銀座駅は、無数の人間の塊でできている。男も女も、無表情な仮面をつけて、携帯電話を見ているか、床を見ている。
誰一人、目を合わせない。
俺は、その中を歩く。ヘッドホンから流れていた音楽を一度止める。代わりに、周囲の音を聞く。
咳払い。ヒールの音。発車ベル。無数の衣擦れ。
そして、沈黙に近い雑音のざわめき。
エスカレーターを降りて、ホームに立つ。前に立つ女の髪が揺れて、俺のコートの袖に少しだけ触れる。
その瞬間、何かが、頭の奥で**“点火する”**。
視界が狭くなる。
——この女の後頭部を、指で突き刺したらどうなるだろう?
肉は柔らかく、骨は意外とすぐ折れる。きっと悲鳴も上げられない。目の奥に驚きだけが浮かんで、そのまま崩れる。
電車の走行音が、ドラムのように鳴る。
胸ポケットから名刺入れを取り出すふりをしながら、妄想の中で俺は、彼女の髪を掴み、顔を壁に叩きつけている。3回目で頬骨が砕ける。4回目で静かになる。
何人かが振り向くが、誰も「音」に意味を感じていない。
——完璧だ。
ただの妄想だ。いや、願望かもしれない。
電車が来る。
銀色の車両に、自分の顔が映る。完璧な顔。整った眉。冷えた目。
扉が開く。乗り込む。
吊り革を握る。指先の皮膚が、人工皮革の冷たさを吸い上げる。
俺は、何事もなかったかのように、また音楽を再生する。
今度は、小沢健二の「ラブリー」。
電車は発車する。
この街のすべての人間が、こうして黙って狂っていくのだろう。
でも俺だけが、それを意識的にやっている。だから俺は「正常」なんだ。
丸の内。ビルの28階。
丸神物産の営業第五部は、外資との折衝や、国内企業への橋渡しを担うセクションだ。
俺のデスクは窓際。東京駅を見下ろす位置にある。今日も快晴。だが、このフロアには太陽が届かない。
会議室に向かうと、すでに何人かの同僚が集まっていた。
白石、堀内、そして菊池昭弘。
菊池は、俺と同じ年で同期入社。
他の連中が2万円の既製スーツを着ている中、こいつだけは5万円のセミオーダーを着てくる。笑える。
だが今日は違った。
菊池のスーツは、明らかにBrioni。仕立てのラインが、肩から袖にかけて自然すぎる。
「黒井、最近忙しそうじゃん。外資、また取ったんでしょ?」
菊池は笑いながら言う。だが目は笑っていない。
「まあ、ほどほどにね」
そう言って俺も笑う。唇だけで。
会議の冒頭、誰かが「そういえば、名刺のデザイン新しくしたんだよ」と言い出した。
その瞬間、静かな戦争が始まる。
白石がまず取り出した。銀座の某印刷所で刷ったらしい。ベーシックな白地に、黒文字。フォントは明朝体。角丸。つまらない。
堀内は横型デザイン。透かし模様入り。パール加工。下品だ。
そして、菊池。
「俺の、ちょっと見てみる?」
取り出された名刺は、真珠のような淡いグレー。フォントはOptima。漆黒の箔押し。エンボス加工。紙はヴェラン・アルシュ。
——クソッ。
心臓が一瞬だけ脈打つのが分かる。
「へえ……なかなかいいセンスじゃん」
と言いながら、俺は胸ポケットから、自分の名刺を取り出す。
真白。和紙ベース。手漉き。職人仕上げ。印字は活版。UVコートなし。手触りで勝負している。
一瞬だけ、菊池の目が動いた。勝った。
——そのとき、もう一枚の名刺が、名刺入れの奥で“ひっかかる”感覚があった。
指先が、それを掴んでしまいそうになる。
無意識のうちに、手が名刺入れを閉じる。
そこにあるのは、**“昨日の夜、殺したかもしれない男の名刺”**だ。
俺は目を閉じ、息を吐く。
「名刺は、顔だからね」
菊池が言う。
「そう。人間の価値は、紙一枚でも滲み出る」
俺は、穏やかな声で答える。
だがその内側では、何かが静かに燃えている。
それは、名前の消えた誰かの顔。
名刺にだけ刻まれた、存在の亡霊だ。
その名刺は、まだ俺の胸ポケットの奥にある
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