IF-救済の女神-
糸三思音
第一話「Lurker(潜伏)」
母と二人暮らしのアパートの小さな自室にて、小説執筆に明け暮れ、独自の世界を作り出しているのは一二歳の少年ロビン。知人の男が連れて行ってくれるドライブは、つかの間の精神の休息、忙しい日々を癒すヒーリング的行為だった。ドライブへ連れて行ってくれる知人のマックス・エドワーズは、アメリカの田舎町ライアナシティの警察署で鑑識係として務めていた。ロビンとは、ある事件を機に出会った。マックスは五十歳。その雰囲気はロビンにとって、離婚で疎遠になった父とも重なっていた。一ヶ月に一度、マックスの愛車である青色のフォードブロンコで好きなところに行かせてもらえるのがロビンにとって、心を癒すきっかけになった。
一九九四年七月八日 午前十時三十五分
ライアナシティ ショッピングモール MORRIS 地下駐車場
ロビンはマックスが運転する車の助手席で鼻歌を静かに歌いながら大人しく座っていた。
地下駐車場には無数の車が停められていたが、愛車のフォードブロンコにはマジックミラーの窓に改良が施されており、警戒心が人より強いロビンにとっては鉄壁の城のようにも思えていた。
「なんでこんな暗い場所が好きなんだい?」
マックスは深入りはしようとせずに淡々とロビンに尋ねた。地下での偵察を選んだのはロビン本人の意思だ。
「うーん……。暗い所って、本当の事が見えるからさぁ」
まだ少女のように幼い顔をした、一二歳の少年が言うには少々不思議な感じがしたが、ロビンはそういう思考をする人物なのだとマックスは認めていた。大人が恥ずかしくなるほど、真っすぐに世界を見つめた発言をし、たえず哲学的にも世界を立体的に解釈しているようだ。彼の文才はかなりのもので、どこからそんな言葉を学んだのか分からないほどに多様な言語を用いて書いていた。
「でもさすがに暑いだろ?アイス買ってるぞ。食うか」
マックスは、後部座席に積んで用意していたクーラーボックスからアイスキャンディーの箱を取り出そうとした。
一瞬、眉を釣り上げると、ロビンはくすぐられた子供のように急に体を後部座席へとよじらせた。
「アイスあるの!?」
ロビンは発言してから、自分のテンションが妙に子供っぽく舞い上がっているのを「しまった」と感じて無言になった。ここは、「アイス?……ほしいな」くらいに留め、冷静にするべきだった、と。顔を俯かせ、ロビンは口を開く。「アイスか。まぁ…、食べてやってもいいぜ?」
自分でもいかんせん言い過ぎだと感じたが、赤面した表情を隠すためには仕方がない。
「ふっ。ロビン、何だ今の?ずいぶんクールだな?」
マックスは、目の前の思春期の少年には寛容で、明るく振る舞った。ロビンはこう見えていつも努力して人一倍影で泣いたりしているのもそれなりに既に理解していたからだ。
「おい、小僧。ほら食えよ」
クーラーボックスの中から一つアイスを取り出すとロビンの前に差し出した。これは箱アイスではなく、チョコレートパフェ。なかなかリッチなアイスだ。
「大きいやつだ。こんな甘いの食べきれるかなぁ」
ロビンはパフェを手に持ち、カップの底を目の上に翳して見つめた。何層にも分かれたアイスパフェは、砕かれたクッキーやチョコレートアイス、バニラアイス、そしてまたコーンフレークが重なった贅沢さ。
「なに、前にケーキ三つもすぐ平らげただろう?」
ロビンは平均より小柄で、一三五センチほどの細身な体型。太る心配はしないが、とにかく甘いものが大好きだった。そして、人間関係でのやり取りは極めて学校の同級生たちに比べても不器用だった。それは周りのだれが見ても明らかといった具合に。マックス含め寛容な大人たちからしてみればそこが可愛くて仕方ない部分でもあった。
「すぐ僕をバカにするんだ!」
マックスは何故、ロビンが声を荒げて泣き出したのかサッパリ分からなかった。 馬鹿にした覚えはない。ただ、ロビンはいささか情緒不安定で、自信がなかった。少し他人が発言したことを大きく受け取り、頭の中でぐるぐる変な方に考えてしまう悪いクセが沢山あった。マックスはロビンの小説を書いたり想像の才能を認めていたが、すぐムキになる子供な部分は、まだ癒したりない何かを表していると感じた。
手のひらに乗ったアイスのカップの底は、ヒンヤリ冷たい。
「ありがとう。マックスおじさん」
強がっていたロビンも、その時は笑顔でスプーンを受け取ると、ただの無邪気な子供としてアイスを口にいれる。甘いアイスを美味しそうに頬ばる様子は子供のいないマックスにとって息子のように感じられて愛おしかった。無防備に食べているロビンは、当初会った頃とは別人のようだ。以前はもっとどこか落ち着かなかった。会話さえままならない時が殆どだったのを思い出す。
「あ、マックスおじさん、こないだの小説、読んでくれた?」
ふとロビンは尋ねた。その小説は徹夜することもあるほど熱中して書いた推理小説だ。タイトルは「夜闇に咲く赤い花」。マックスは先日、小説の内容が丁寧にコピーされた四〇〇字詰めのコピー紙一〇〇束をロビンから受け取った。約四万字の小説。ロビンにしてはなかなかの長さを書け満足していた。日頃のコミュニケーションは不器用だが、小説となると話は逆であった。鋭い言語化能力が天才的に窺える。
マックスは小説の感想を教えた。
「毎日かかさず読んだよ。とてもきみの価値観とかが反映されている素晴らしい小説だった……」
形容しがたい真実が四万字の中に埋め込まれていた。「人はどうして愛を求め苦しむか」「哲学は人を救済するか」といった奥行きのある思考回路がロビンの中にうずを巻いて、行き場を探している様が物語の中に宿る。多少拙い箇所や矛盾点もあったのをマックスは記憶していたが、それも気にならないほどに卓越したそれは一本の〈奇書〉のようにも思えたのだった。
「夜にしか見えない花が、歩いて人の形になっていくって内容が怖くて面白かった。よくこんな想像ができるもんだ」
マックスは感想を続けると、一二歳の、まだ背も低い男の子によくそんな物語が書けると感歎した。今やアイスをペロペロと目を輝かせて勢いよく食べている子供に書けるものかと。
ロビンの横顔が見ていたのは、遠くの店内入口で歩きながら談笑している四人家族。父母と、息子、娘であろうその姿を見て、「人間の奥底に隠された機微か」と、何やら哲学めいた難しい言葉が漏れ出ている。まだ声変わりしていない中でそれを言うのだから、全く持って彼の思考と体の成長は解離していた。そして、アイスのスプーンを口に半分入れたままであった。
「哲学者ロビンくん、なにやら面白いことがあったようだ」
ナレーターのような口調のマックスの声が車内に響いた瞬間、ロビンは激しく赤面して、動揺した。
「よせよ。恥ずかしいじゃないか」
ロビンの目が泳ぐ。ほんのり赤くなった頬、口を突き出し、拗ねる。
「きみがいい出したんだろう、ロビン、その語り部」
揶揄われて悪い気はしなかった。マックスは良いおじさんだった。悪いところも見せたっていい、そう思える貴重な仲間だ。
心のオアシス。
車内のラジオから、ギルバートオサリバンの『Alone Again(Naturally)』が温かく軽快なリズムを醸し出してかかった。
冷えた風が地下の駐車場に吹く。生ぬるい空気を押し出し、居場所を求め去っていくように。ヒュルルと獣の鳴き声にも聞こえる風の音。魔王が燃える息を吐き出しているのではないかとロビンは考えて不安が少しよぎった。
「風、強いね」
駐車しているスペースの真横に巨大ファンがあり、外界との接点を形成している。鉄はやや錆びており汚れているがファンの隙間からは隣接されたブティックの店内が窓越しに見える。
「ファンからの風。モンスターみたいだよな」
マックスは童心に戻ったといった具合に話す。マックスもロビンといると少年時代にタイムスリップできる気がした。マックスはロビンを守ると決めた。彼の描く物語もだ。
あの事件が発生した日から、外界に漂う何かが鋭くこちらを見つめだしたのを思い出す。大人たちは気づかない、二次性徴を迎えたあたりの頃から変貌してしまった、穢れた自分自身の内側のモンスター。盲目にされたのは、日常の悲鳴であるのだ。
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