第8話 彼の覚悟、私の覚悟
このお話はフィクションです。
目の前には武道館が見えている。
宝珠から緑の屋根が八方向に緩やかな曲線を描いて伸びている。
どこから見ても対称で美しいその形に見惚れる。
「武道館、綺麗だね。学生の頃はよくライブを見に行ったな。だいたいいつも二階席しか取れなくてさ。通路が狭くて足が引っかかりそうで‥。おまけにすり鉢の勾配がキツいもんだから音楽に乗ってくると足を踏み外して落ちそうな気がして怖かったよ」
「そうなの!私も武道館が大好きだからライブを見るときは頑張って武道館公演を選んでいたわ。私もあの勾配怖かった!(笑)ステージがほぼ真下を見下ろす感じだものね」
そうなのだ。
音楽好きにとって武道館は特別な感じがする。
音楽専用アリーナではないから音響はあまり良くないけどそれにも増して「武道館で観ている」感じが特別な気がして好きだった。
似たような思い出を持っているんだな。
もしかしたら観ていた景色は同じだったのかもしれない。
そう思ったらなんだか嬉しくなった。
二人で、誰のライブを観たか、印象的だった演出は?などひとしきり音楽談義で盛り上がった。
気がつくと千鳥ヶ淵沿いの小径を歩いていた。
夏の頃はさぞかし緑濃い木々から眩しい木漏れ日が降り注ぎ、堀に浮かぶボートの白が水面の緑との強いコントラストで綺麗だったろう。
晩夏の今は少しづつ緑の深さは薄れ差す光も心なしかやわらかく感じられる。
白いボートハウスの桟橋にもたれて彼が私に尋ねた。
「どうだい?書き進んでいるかい?」
痛いところを突かれて私は怯む。
「実は全く書けていないんだよね。正直、着手すらしてないわ」
そういうと彼は私を見つめていう。
「僕はもう半分は描けたよ。下絵がほぼ出来上がっている。今日君に合ってまた新たな一面を知ったから少し描きたさなきゃならなそうだけど、ほぼ僕の中のイメージは固まっている」
「ははっ。もうそこまで出来ているんだ。焦っちゃうな。どうしよう」
すると彼が
「全然、焦っているようには見えないな。もうかれこれ二週間だろ?その間に何かしら出来た筈じゃないか」
正論を吐かれて何も言い返せない。
「私だって何もしていなかったわけじゃないわ。あなたのこと知ろうとこうやって半ば取材のように色々聞いているわ」
やっとの思いで反論するも
「それでいて何も書けないのかい?それじゃあ何を取材したっていうのさ。知った端から書きたいと思わないのかい?そんな気も起きないほど僕はつまらない人間なのかい?」
「そうじゃない。そうじゃないけど‥。」
涙ぐみそうな私に今度は彼が怯んだ。
深呼吸して、今度は落ち着いた声で彼が私にいう。
「いいかい?この挑戦はお互いに一つ殻を破る為に始めたことだろう?そんな半端な事じゃ殻は破れないよ。お互いに全てを燃やして初めて違うステージが見えるんだ。だからいま出せる全てをお互いの作品にぶつけるんだ。もうこれ以上できない、そう思ったその先まで行く覚悟を持つんだ。」
言われて初めて呆然とした。
そこまでの覚悟はあるか!?
はっきり言って、なかった。
ないどころか彼を知って行く度に彼に少しづつときめきに似た感情を持っていたなんて。
完全に浮ついていた。
私は何を目指していたのだろう?
いつからベクトルが的外れの方向にずれていたのか?
今までも創作の苦しみはそれなりに味わってきたつもりだ。
でも、スランプで行き詰ってしまったらそれを打破する為にはそれ以上の苦しみと覚悟がないと突破できない。
わかっている事なのにいつから見失っていたのか。
彼の横顔を見る。
彼は水面を見つめたまま身じろぎ一つしない。
こんなに創作に真摯に向き合って共同作業の私にも真剣にぶつかってくる。
これが本当の彼の姿。
いや、そう言い切れはしない。
でもきっとこれが彼の核の部分だろう。
それを見抜けなかった自分の薄っぺらさに腹が立つ。
腹立ち紛れに小道に落ちていた小石を水面に向けて思いっきり投げた。
小石は水面を数回跳ねて堀の反対側の岸まで届いた。
彼が瞳をキラキラさせて私に微笑み掛けた。
その瞳が、静かに“やれるさ”と告げていた。
to be continue…
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