アヌビスの偽証─天才医師四宮椿への挑戦状─【冒頭部先行公開】

アスナショウコ

ライアー・ゲーム(1)

 信ずるに足る理論を産み落とし、この世界を改竄するというのは、ある意味において物語を紡ぐ行為である。


 フェリックス・ジョン・レナードという魔術師が、とある異界を発見した際にそんな言葉を残している。



 フィクションとは、現代において許された最も普遍的で危険な魔術だ。



 現代魔術の方法論において、誰もが一度は考える。物語によって、己の魔術を奇跡の領域まで高めることができないか、と。大部分の魔術師は挫折するだろうがね。


 だがごく稀に──そう、ごく稀に。嘘をまことに変えられる程の物語を編む魔術師がいる。現実の表層に薄氷を張るような行為をいとも簡単にやってのけて、瞬きの間に氷山に変えてしまう者が。



「それが、私だって言いたいの?」



 男とも、女ともつかない声が背後から聞こえた。オスカー・ハルハイムはそちらへ振り返る。

 ボサついた毛並みに、白黒のまだら模様をした猫が一匹、悪戯っぽく尻尾を振っている。


「講義中だよ」


 ハルハイムは苦笑した。だが猫は意に介さず、顔を掻いて答えにする。

 猫はひょいと卓上から飛び降りて、瞬間的に人の形へ変じる。しかしそれは、魔術師たちの中にあっては異様な姿であった。


 馬子である。黒っぽい芦毛の牝馬子だった。中性的な見た目のせいか、青年と言われてもだれも疑わないだろう。背も少々高い。ただ猫背気味であったから、実際よりは小さく見えた。


 生徒らがざわめいて、馬子まごの噂話に興じる。魔術は使えないはずでしょ、という無邪気な言葉が彼女の胸を軽く抉った。


「……ハルハイム。私がここに来た理由、わかる?」

「わかるさ。だがその話は今ここですべきじゃない」

「今はいい先生でいたいわけですか。わかりましたよ、そういうことなら」


 馬子は再び猫の姿に変じ、生徒が座っていない席に丸まった。まだうら若き魔術師の卵たちは、その猫へ奇異の視線を向けていた。


 猫は視線を意に介さず、椅子からテーブルへ飛び乗る。にゃー、と鳴いてみれば、生徒らの視線が一斉に刺さった。露骨に口語で、全く猫らしくないせいだった。


 猫は先程してみせたように、ふわりと教壇から飛び降りた。直後、影がぐるぐると渦巻いて人の形を取り、その黒の中から牝馬子が現れる。


 その声とほぼ同時にパチン、と指が鳴らされる。ぱっと生徒たちの頭上にトランプが出現し、ひらひらと舞い落ちる。何が起きたのか呆気に取られている彼らは、そのトランプを手にとってしげしげと眺めていた。


「案外いいでしょ。DAISOのトランプ」


 彼女はそう言って空のトランプケースを掲げた。


「はは、これは困ったなあ」


 教室にはたった八人しか生徒がいない。だというのに残りのカードがどこへ消えたのか、それは考えるまでもなく。彼女が笑ったのを見計らって、ハルハイムの頭上にカードの雨が降り注いだ。




「一体どんな風の吹き回しだ? 〈脚本家〉ライナー


 講義を終え、最後の生徒を見送った後、ハルハイムはカードを切っている彼女へ問いかけた。


 その声はどこまでも冷徹だった。先程子等へ向けていた慈愛の仮面は剥がれ、徹底した成果主義の教授といった雰囲気が滲み出ている。


「いや、してやられたのって初めてじゃないかな、と思って」


〈脚本家〉と呼ばれた彼女はそう言って、カードを弄ぶのをやめる。


「確かに神秘魔眼を奪取されたことは、想定外だった」

 ハルハイムは〈脚本家〉の持っていたトランプの束から、一番上のカードを引く。


 ジョーカー。



「だからといって手をこまねいている気はない」

「日本へ?」

「いや、私は行けない。実に残念だが」

「ああ……成程。もう気づいてた? 流石は稀代の天才魔術師殿」


 そう言って彼女はジャケットの内側から、クリーム色の紙を取り出した。そこには、先程彼女が猫の姿で登場したところから──ハルハイムの頭上へカードを降り注がせたところまで。そのシーンが地の文、台詞も含めて丁寧に綴られている。


「フィクションは最高の魔術だから」

「たちの悪い話だ」


 ハルハイムはそう言って冷酷に微笑んだ。


「なら次の展開も、君が書くといい」


〈脚本家〉は分かったような分かっていないような反応を見せた。


「君は普段から、気乗りしない案件は受けないだろう。だったら全てを君に一任する。そうすれば乗らざるを得ないんじゃないか?」

「性格悪いよ……」

「性格が清らかな悪党がこの世にいるとでも?」


 はあ、と彼女がため息をつく。

 ひとえにこの馬子の狼藉が許されるのは、彼女が馬子であるが故だった。ハルハイムは馬子を神秘な生き物として研究している節がある。彼女もまた、研究対象のひとりであった。


「いいの? モリアーティ」


 ぴく、とその名に彼の眉が動く。


「──全部嫌になって、ドスっとやって殺しちゃうかもよ」


 ハルハイムはその言葉に、形の良い唇をふっと緩めた。


「ハハ、お前にそんなことができると本気で思っているのか?」


 嘲笑。若き魔術師を侮っているというよりも、本気で彼女には不可能だと言いたげな顔であった。

〈脚本家〉の肩へハルハイムの手が置かれる。


「べつに……」


 冷たい。必死にひねり出した声は、情けなく震えていた。彼女の尾は脚の間に入り込み、耳は彼の言葉を聞きたくないと抗っている。


「心構えは素晴らしい事だ。だがね、エルデー」


 ハルハイムは柔らかく、一等優しい声で〈脚本家〉を呼ぶ。だがそれは余計に彼女の恐怖を刺激し、絶対にこの蜘蛛の王には逆らえないのだと、一層惨めな気持ちにさせられた。


 彼の瞳の奥には強い憎悪と、このままあれを放置してはならない、という使命感が綯い交ぜになって横たわっている。


「君もきっと、僕と同じように唇を噛むことになる。あれはタダでは転ばない」

「シャーロック、……ホームズよりも、厄介?」

「間違いなく厄介だ。だが、実に面白い相手でもある」

「…………、モリアーティ。本質を見失うなよ」


 〈脚本家〉は諌言のつもりか、そんな風に言った。


「だから君に頼んでいるんじゃないか。君ならば、彼女の仮構エーテルごと彼女を殺せる可能性がある」

「フェリックスは嫌がりそうだけど。貴重な神秘編纂者のサンプルが失われるなんて、世界の損失だって」

「君は本当にフェリックス贔屓だな……」


 ハルハイムは面倒くさそうに呟き、「なら、言い方を変えよう」



「エルデー・トゥモロー。あるいは、〈脚本家〉ライナー



 その声に、〈脚本家〉は背筋を凍り付かせた。己の身体に彫りこまれた数字が、しんしんと体温を下げる。


 急速に体が冷たくなり、心臓が死の恐怖へ早鐘を打つ。ぐらぐらと揺れる頭の奥で、〈脚本家〉はその緋色を思い出した。


 私がここにいる理由。それは全て、神秘と幻想の解明殺害を防ぐため。


 私の存在理由レゾン・デートルは、全て自身の仮構フィクションにある。



 大きく息を吸う。息の詰まった咽喉へ、空気だけが押し込まれる。唾液は緊張で乾ききってしまっていた。

 ハルハイムが殺意の籠った視線でこちらを射抜いている。心臓に真っ直ぐ、ナイフで刺されるような感覚を覚える。


 高揚感があった。


 極限状態におかれて、遂に脳がドーパミンで感覚をおかしくさせはじめたのかもしれない。

 それは飽きもせず、彼が探偵共へ向けた視線であった。



「──四宮椿しのみやつばきを殺してこい。できなければ、フェリックス・ジョン・レナードの命はないと思え」

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