ラクリマ湖Ⅰ
村を抜けるとすぐに雪山が高く聳え立っていた。
日はもう傾いていた。
冷静な人であれば村で一晩休んでから、翌朝山を登った方が良いと判断できたのかもしれないが残念なことにスピーヌスとリキを除く三人は冷静さを欠いていた。
おっと失礼、カリタスはここに来て幾分冷静さを取り戻し始めた様子だ。
というのも彼女が期待した希少な植物というのはどうにもここにはなさそうだったからだ。まあしかし今さらながら村で一晩宿をとっておけば良かったと思ったもののもう遅い。
後悔先に立たず、だ。
大地は白く、天も白く、一面が白の世界。
黒く、細い木々を雪の結晶の様な白い葉がちらほらと彩っている。
その美しい光景にエナは思わず感嘆のため息をついた。
「ほぅ…」
その吐く息さえも白だった。
まさしく白の世界だ。
上の上のその上までまるで白以外の色が異端かのように思える世界が広がっていた。
しばらく進んで山の中腹ぐらいにたどり着いた時、突然雪が降ってきた—大雪だ。エナたちは吹き荒れる雪の攻撃から顔を守りつつ必死に前へ前へと進んでいく。日は落ちてしまったのか、それともこの雪雲のせいで隠れてしまっているだけなのかエナたちにはもうわからなかった。
どれくらい進んだのだろう。突然、大雪の中暗闇の先に橙色の暖かな光が見えた。
—火?
口を開いて周りのみんなに見えていることを確認したかったがとても口を開けるような状態ではなかった。冷たい風が肺に痛くて、呼吸をするので精いっぱいだ。でも確認しなくても光を見た瞬間に四人の中で目指すべき目的地は決まっていた。エナたちはゆっくり一歩ずつ光を目指す。
ドサ…ドサドサ…
明かりは洞窟の奥から漏れ出ていた。
エナたちは洞窟の入り口から少し進んだところで体に積もった雪を払い落した。
こうして見るとかなりの量だ。四人と一匹分の雪で洞窟の青黒い地面が見えなくなってしまった。
上半身は毛皮のコートで守られているものの足元が悲惨だった。
ブーツの中に雪が入り込み、足の熱で少し溶けて氷水になってそれがさらに体の熱を奪った。寒すぎて、熱々の鉄板を押し当てられているかのように熱を持っている右腕でエナは左手を温めていた。
悔しいけれど今はこの謎布に感謝していた。
エナたちはブルブルと寒さに震えながら明かりの灯る洞窟の奥へと進んだ。
それは虫が夜になると明かりに群がるようなもので、はっきりとした意志というよりは本能的な行動だった。
「家…。」
悴んだ口から思わず漏れ出た一言。
洞窟の奥にあったのは丸い木で組み立てられた小さな家だった。
温かな明かりが窓から漏れ出ている。
—トントン
エナは扉を叩いた。
反応はない。
—トントン
もう一度叩いた。
やっぱり反応はない。
—キィ…
エナたちは木の扉を開けた。
もし命の危険を感じるような寒さじゃなかったらこの常識のある四人が返事のない家の扉を開けることなんて決してなかっただろう。
しかし背に腹は代えられない。
ここで凍え死ぬくらいだったら不法侵入者になる方が遥かにましであった。
扉を開けると温かな空気がエナたちを包み込んだ。大きな暖炉では火がパチパチと燃えている。暖炉の前にはロッキングチェア、まだゆらゆらと揺れていてつい先ほどまで誰かがそこにいたみたいだ。
床には紺色の絨毯。
壁は天井高くまで本棚になっており、大小様々な本が敷き詰められている。
扉から向かって反対側には小さな木の机と椅子。机には羊皮紙の束がたくさん置かれて、木の面が見えなくなっていた。羽ペンがインク壺にささったままだ。大きな柱時計がかかっており、カッコン、カッコンと少しくぐもった音で時間を刻んでいた。
土で汚れた靴のまま上がるのはどうにも気が引けたのでエナたちは裸足になって部屋に上がることにした。紺色の絨毯はチクチクしていて裸足で踏むには少し痛かった。
エナは消えかけていた暖炉の火をつけ直すと手足をかざして温める。
その横でカリタスがリキの濡れ毛をタオルで優しく拭きあげていた。アルは何やら非常に警戒していて、小さな音一つ一つにびくっと体を震わせている。スピーヌスは机の上に散乱した羊皮紙を一枚ずつ手に取ってそこに書かれたものを読んでいた。エナはその時初めてスピーヌスのの素肌を見た。白くて華奢な足だった。女性なのだろうか…。
温かく穏やかな空気であるにも関わらずやっぱりエナたちは本当の意味で心を休ませることができなかった。
—見ている
あの何かは大雪に見舞われ前に進むのがやっとの時も、明かりを見つけて希望が湧いた時も、洞窟を見つけたときも、この家を見つけたときも、そして今こうして家の中で体を温まているときもずっとエナたちを付け回している。
その“目”は離れることなくなんならどんどん近づいてきているような気がした。
カリタスは鍋を暖炉の火にかけるとミルクの瓶を開ける。冷たい環境だからだろうか、万屋で買ったこのミルクは随分長持ちしていた。
カリタスがミルクと香草、それから生姜と林檎を煮詰め始めるといい香りが漂ってくる。
エナはまだ父も母もいた頃にこの匂いを祖母の家で何度も嗅いだことがあった。
「しゃらりしゃらしゃら森の花~♪
香草はマーショの贈り物~♪
アキャイラミが風にたなびき~イニティウムを待っている~♪」
「何ですか?その歌。」
突然よくわからな言葉がちらほらと挟まった歌を歌いだしたエナをカリタスは不思議そうに見る。
「昔、祖母の家に行ったときカリタスが今作ってるミルクスープそっくりのスープをいつも作ってくれたの。そのスープを作るときおばあちゃんは毎回必ず同じ歌を口ずさんでいたのだけれど、今それをふっと思い出したんだ。」
エナは照れくさそうに笑う。
「マーショにアキャイラミ?聞いたこともない単語ですね。でもエナさんのお婆様が歌ってたとなると何か聖書に関係しているのでしょうか?」
「うーん、祖母の家に行ってたのは私がまだ三十歳くらい(人族で言うなら三歳)の時のことだからな。歌詞も単語ごとに意味を理解して歌ってたんじゃなくてリズムと音の響きを真似して覚えたものだから合ってるかわからないし、それに祖母は嫁入りしてきた人だから必ずしも聖書に関係している歌ではないと思うわ。」
「子供の頃に覚えた歌って音の響きで捉えたものが多いから実在しない単語の羅列を歌ってたりすること結構あるよな。」
アルは先ほどよりは少し落ち着いたみたいでドサッとエナの隣に胡坐をかくと話に食いついてきた。
それからエナたちは昔覚えた歌の話で盛り上がった。
机の上に散らかっていた羊皮紙を一枚ずつ丁寧に読んでいたスピーヌスもエナたちの歌に耳を澄ましながら時々机を指で叩いてリズムを刻んでいた。
体をブラシで梳かれて不機嫌だったリキの尻尾も楽し気に揺れて、パサパサと床に擦れて音を立てている。
焼けつくような右腕の痛みもあの不気味な存在のことも、盛り上がっているエナはもう気にならなかった。
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