間章
外伝 深淵の誓い
混沌の迷宮、第六層の神殿に、三人の影が佇んでいた。
王子、大魔法使い、そして剣士。
彼らは迷宮の最深部を目指していたが、ここで立ち止まらざるを得なかった。
石柱が整然と立ち並ぶ中央で、古い台座が一冊の書物を静かに守っている。
その向こう、第七層へと続く石段からは濃密な黒い瘴気が立ち上り、まるで生きた壁のように道を阻んでいた。
王子が下層への石段に近づこうとすると、瘴気が無数の針となって肌を刺した。
激痛に顔を歪め、反射的に身を引く。
「ここまでか......」
王子が唇を噛み、拳を握りしめた。
大魔法使いが台座の書物を手に取った。
埃を払いながら頁をめくる。
「相当古い文献ね。古代語の中でもかなり古い方言が混じっているわ」
彼女の指が複雑な文字をなぞる。
だが、読む速度は全く落ちない。
「『始原の塔に魔力が満ちる時、迷宮を覆う瘴気は払われ、深淵の道は開かれん』......ふむふむ」
ふと思いついたように指先に小さな光を灯した。
「あ、そうだ。ここ大事だからしおりをはさんじゃおう」
淡い魔力の結晶を、さきほど読んだ頁にぽんと挟む。
「後で誰かの役に立つかもしれないし」
まるで普通のしおりを挟むような気軽さだった。
「始原の塔......」
王子が眉をひそめた。王都北方にある、あの暗銀石でできた塔のことだろう。
「まさかあんな朽ちた遺跡が関係しているとは」
誰もが知る古い塔だが、ただの廃墟として放置されている。それが瘴気を払う鍵だというのか。
「塔を魔力で満たす、か......」
大魔法使いが呟いた。途方もない時間が必要だろう。
そして迷宮の瘴気は、もう待ってはくれない。
誰もが己の役割を悟っていた。
頁をめくる音だけが、神殿に響く。
「塔は私が引き受ける」
大魔法使いが、書物に目を落としたまま口を開いた。
「魔力を満たすには五百年ほどかかりそうだけど......まあ、眠っていればあっという間よ」
軽い調子で言いながらも、その瞳には覚悟が宿っていた。
王子が剣を天に掲げた。
「ならば僕が迷宮の刻を止めよう」
「王家の血族だけがつかえる時空魔法がある。この命に代えて、塔に魔力が満ちるまで迷宮の刻を止めてみせる」
大魔法使いが書物を見つめたまま、動きを止めていた。
「ちょっと待って」
「この文書、続きがあるわ」
大魔法使いの声が、神殿に響いた。
「『混沌の迷宮の瘴気を払いし状態において』」
「『魂犠の玉座に輪廻兵を坐らしめ、自らの命を捧げしむれば』」
「『その死は永遠となり、瘴気は封じらる』」
書物を閉じる、重い音。
「つまり」
大魔法使いが顔を上げた。
「瘴気を払った後、この迷宮の最下層にある玉座で——輪廻兵が命を捧げなければ、封印はできない」
沈黙が落ちた。
「馬鹿な」
「なぜ今ここに輪廻兵がでてくるんだ......?!」
王子の声が震えた。
「五百年後、わずか数日の猶予で——たまたま輪廻兵が現れ、玉座に辿り着き、自らの命を捧げる?」
拳を握りしめる。
「そんな偶然、ありえない」
静かに聞いていた剣士が一歩、前に出た。
「僕がやろう」
空気が凍りついた。
「僕が輪廻兵となり、迷宮と共に封じられ、必ず未来で瘴気を封じる」
「......何を言っている」
王子の声が低くなった。
「それしか——」
「だめだ!」
王子の叫びが、石柱に反響した。
「父に、何度訴えてきたと思っている......!」
声が震える。
「あれは人の尊厳を踏みにじる、ただの道具だ」
「それなのに......僕が、最後に親友を——」
言葉が途切れた。
「それに時を止める魔法は生命にとって危険よ、有害事象が予測できないわ」
剣士は大魔法使いをじっと見つめた。
静かに頷き、微笑む。
そして、ゆっくりと王子の肩に手を置いた。
「いいんだ」
声は穏やかだった。
「誰かが、やらなければならない」
剣士の声に、迷いはなかった。
「そしてそれは今、僕にしかできない」
王子の膝が、石の床に崩れ落ちた。
長い、長い沈黙。
やがて王子が手の甲で頬を拭い、立ち上がる。
「親友」
その呼びかけに、剣士の瞳が揺れる。
「君には最も重い役目を託すことになる」
「王家の祝福を君に授ける」
王子の目が逸らすことなく剣士を見据える。
「そして君ごと迷宮の時を止める。時が動き出した時、君もまた目覚めるだろう。だが......」
声が震えていた。
「祝福は呪いでもある。死を許されず、何度も『戻る』ことになる」
「戻るたびに、君は少しずつ人間性を失っていく」
「......すまない、こんな残酷な運命を......」
剣士は静かに頷いた。
「まかせろ」
その一言に、すべての覚悟が込められていた。
大魔法使いが腕を組み、口元を緩めた。
「封印が解けたら、必ず私を起こしなさい」
「塔の最上階で待っているわ」
そして表情を曇らせた。
「でも、この瘴気の濃度と拡散速度からすると」
「再び時が動き出したら五日も持たないでしょうね。王子の言う通り、きっと何度も『戻る』ことになるわ」
大魔法使いが眼を閉じる。
「人間性だけは......見失わないでよ」
王子が腰の愛剣を抜き、鞘ごと剣士に差し出した。
「これは僕の剣だ。君と共に戦ってきた剣でもある。目覚めた後も、きっと君の力になってくれる」
続いて懐から数枚の銀貨を取り出す。
そこには、王子自身の肖像が刻まれていた。
「そしてこれは......まあ、僕が王になることはなくなったけどね」
苦笑いを浮かべながら、銀貨を剣士の手に押し付ける。
「即位のために試鋳されていた銀貨だ。目覚めた時に必要になるかもしれない。宿代くらいにはなるさ」
三人は最後にもう一度、視線を交わした。
迷いはなかった。
誰一人として、己の選択を悔いてはいない。
大魔法使いが転移の術式を描く。
「ちょっと王都に寄ってから塔に行くね」
術式が淡く光り始める。
その中で、振り返らずに言った。
「……あなたは私の中で、最も偉大な『王』よ。忘れないわ」
王子が静かに微笑んだ。
「……ありがとう、セレナ」
「じゃあ、またね」
光に包まれ、その姿が消えた。
「はじめよう」
王子が厳かに宣言し、深く息を吸った。
「我が名はユリウス・ディ・ステイシア。真名を——ネルフェル」
「深き淵を廻りて昇る者よ、堕ちては昇り、昇りては堕ちる、その永劫の螺旋に身を投ぜよ——」
ネルフェルの体が黄金の光に包まれていく。
それは温かく、しかし畏怖を感じさせる光だった。
光は渦を巻きながら上昇し、神殿全体を照らす。
「王家の祝福という名の枷を君に授ける」
「これは祝福であり——祝福は、呪いでもある」
「でも、君にしか託せないんだ」
ネルフェルの光が剣士に吸い込まれていく。
黄金の奔流は、優しく、そして容赦なかった。
祝福の印が胸に刻まれる。
魂の深淵に、時の刻印が打ち込まれていく。
だが、その痛みの奥に。
友の祈りが、そっと寄り添っていた。
「親友」
「ハル、世界の運命を君に託す」
剣士は黙って頷いた。
そして振り返ることなく、もと来た石段へ向かって歩き始める。
背後でネルフェルが時空魔法の準備を始める。
複雑な魔法陣が足元に広がっていく。
光が、ゆっくりと動き始めた。
迷宮全体が、時の檻に閉ざされ、地深くに沈み始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます