一日目 邂逅
光が弾け、視界が戻った。
水の中だった。
膝下まで浸かる冷たさ。足元で青白い紋様が脈動している。
顔を上げる。
石柱が整然と立ち並ぶ空間。高い天井を支える太い円柱が、闇の奥へと続いている。
始原の塔、第五層。祈りの泉の広間。
前回、泉の中央には像が立っていた。
祈りの頭衣を深く被り、水瓶を肩に抱えた像。
水瓶から絶え間なく流れ落ちる水が、聖歌のような響きを広間に満たしていた。
今は、ない。
迷宮側から起動した際に、あの時と同じように水底に沈んだのだろう。
広間の奥に、扉が見える。
ハルは水を蹴った。
飛沫が上がる。石柱の間に、自分の足音だけが響く。
巨大な石の扉。
扉に手をかけた。
古い石の感触。
一気に押す。重い軋みを上げて、扉が開いた。
光が溢れ出す。目を細めながら、その奥を見た。
薄い金色の繭。柔らかな光を放つその膜の中で、白銀の髪の女性が静かに目を閉じている。穏やかな寝顔のまま、五百年。ずっとこの姿勢で、待っている。
ハルは歩み寄り、繭に手を伸ばした。
指先が光の膜に触れた。波紋が広がり、金色の光がゆらぎ、薄れ、消えていく。
女性の睫毛が、かすかに震えた。ゆっくりと瞼が開く。深い紫の瞳が焦点を探るように揺れ、やがて——ハルを捉えた。
「……ん」
小さな声。まだ焦点が合っていない。
瞬きを繰り返す。何度も、何度も。
やがて、両手を顔の前にかざした。指を開いて、閉じて。自分の体を確かめるように。
「ふわぁ……」
大きな欠伸。両腕を天に伸ばし、背筋を反らす。骨が軋むような音がした。
「……重い」
呟いて、首を回す。
「んー……よく寝たわ」
「セレナ」
ハルは一歩踏み出した。
「ロスティアの仮面とは、何だ」
「ハル?」
セレナが目を瞬かせた。
「ハル!何よいきなり。感動の再会でしょう、五百年ぶりなのよ?」
ハルは答えなかった。ただ、セレナの目を見つめている。
「……待って」
セレナの紫の瞳が、ハルの胸元に向けられた。三重の円環。
「私を起こしたの、何度目?」
「二度目だ」
セレナの表情から、軽さが消えていく。
「私を起こしたのに、死んだ……?」
呟くような声だった。
「セレナ、教えてくれ。ロスティアの仮面とは何だ」
ハルは繰り返した。
「前の時脈で、君が教えてくれた」
「——私が?」
「僕が死ぬ間際に、君がそう呟いていた。その仮面の剣士に殺されたんだ」
セレナは身を起こした。繭の残滓が、金色の塵となって舞い落ちていく。
「ロスティアの仮面……」
静かな声だった。
「私が、そう言ったのね」
長い髪を払い、ハルの顔を見上げた。
「どんな姿だった」
「白い仮面だ。今の王国の七英傑の一人らしい。ニョルドと名乗っていた」
セレナの目が、わずかに細まった。
「……英傑」
呟くように繰り返す。
「昔——エルフの師から聞いた話なのだけど」
セレナは立ち上がり、広間の闇を見つめた。
「東の辺境に、小さな公国があったの。ロスティア公国」
セレナの視線が、一瞬だけハルの胸元——三重の円環に触れた。
「私たちの時代から二百年前の話」
「今からだと七百年前、か」
声は低かった。
「王国の輪廻兵に粛清されたらしいわ」
「でも——」
セレナが振り返った。
「彼らは、ただ滅ぼされたわけじゃない」
「どういう意味だ」
「師は、ロスティアに招聘されていたの」
「対抗策の研究。輪廻兵を倒すための——あるいは、輪廻兵に匹敵するための」
ハルは黙っていた。
「精神の仮面」
セレナが言った。
「肉体が滅びても、意識を器に移す術。被った者の精神を乗っ取り、その連鎖が永遠に続く」
「……永遠に」
「師は、完成を見届けることなくロスティア公国を離れたわ。理由は聞いていない」
セレナの声が沈む。
「でも、研究は続いていたはず。公国が滅ぶ、その日まで」
ハルの脳裏に、あの仮面の剣士の姿がよぎった。
「奴は言っていた」
ハルが口を開いた。
「輪廻兵とステイシアの血族を、根絶やしにすると」
「……輪廻兵と、ステイシアを?」
セレナの目が細まった。
「ロスティアは輪廻兵に滅ぼされた。そして輪廻兵を生み出せるのはステイシアの血族だけ」
セレナが腕を組んだ。
「輪廻兵とステイシア、両方を恨んでいるなら——仮面に宿っているのは、ロスティアの生き残りね」
「七百年……」
ハルが呟いた。
「七百年、復讐を続けているのか」
「器を渡り歩いて、ね」
「だが——」
ハルが眉をひそめた。
「なぜ王国の英傑なんかに収まっている?」
「さあ。そこまではわからないわ」
セレナが息を吐いた。
「ただ、もし本当にそうなら——厄介どころの話じゃないわね」
二人とも、しばらく口を開かなかった。
「でも」
先に口を開いたのはセレナだった。
「今の私たちには、直接どうこうできる相手じゃない」
「それより——」
セレナがハルの目を見た。紅い瞳を、真っ直ぐに。
「決意は変わらない?」
ハルは、セレナの目を見た。
「変わらない」
「僕は瘴気を封じる」
「魂犠の玉座で——」
「ああ」
静寂。
セレナは何も言わなかった。
ただ、小さく頷いた。
「……わかったわ」
声は静かだった。
「私にできることは、全部やる。最後まで」
「だが、その前にやることがある」
「ニョルドね」
「あいつを放置したままでは、ネルフェルの血を引く者が——」
「今の王は誰なの?」
「イレニア・ディ・エルヴァンディア」
セレナの眉が動いた。
「……エルヴァンディア? ステイシアじゃなく?」
ハルは頷いた。
「そうだ、なぜかネルフェルの名も残っていないらしい。どの歴史書にも」
ユーメリナが言っていた。祖母から受け継いだ水晶板に映る英雄——その名は、どこにも記録されていない、と。
「それに——」
言葉を切る。
「アウレリウスが、狂王と呼ばれていると聞いた」
長い間があった。
「……あの子が」
セレナが呟いた。
「五百年か。……いろいろ、あったのね」
兄の背中を追いかけていた、若い王子。
ネルフェルとハルを慕い、いつも二人の傍にいたがった青年。
その彼が、狂王。
セレナが腕を組んだ。
「ニョルドの件も、歴史の件も、調べるには協力者が必要ね。この時代の」
協力者。
ハルは考えを巡らせた。
ユーメリナか。いや、今は聖都にいる。
アストライア。いきなり女王に会えるはずがない。
ガルト。髭面。グリム。
いや——そもそも、彼らは歴史を知っているのか?
歴史。消された歴史。
それを知る者がいなければ、何も始まらない。
——待て。
脳裏に、声が蘇った。
『この銀貨に刻まれた人物は、歴史書にも出てこない。いないことになっている』
あの枢機卿。銀貨を見た瞬間、顔色が変わった。
知らなかったからではない。
知っていたからだ。
「一人、心当たりがある」
「教会の枢機卿で、ヴェルメールという男だ」
「知り合いなの?」
「前の時脈で会った。何かを知っている目だった」
「ただ、敵対する可能性もある。前回は——戦闘になった」
「でも、他に手がかりがないなら、賭けるしかないわね」
セレナが肩をすくめた。
「ああ。だが——」
ハルが眉をひそめた。
「枢機卿だ。いきなり会えるとは思えない」
「伝手はないの?」
「……待て」
脳裏に、アストライアの声が蘇った。
『カサンドラが……ヴェルメール枢機卿のもとで古い文献の管理を司っていた』
そしてユーメリナの声。
『孤児院を支援されていて……よく足を運んでいらしたと』
「カサンドラ」
ハルが呟いた。
「七英傑の一人で、教会の大司教だ。ヴェルメールの下で働いている」
「その人に繋いでもらう?」
「ああ。孤児院によく足を運んでいると聞いた」
「なら、まずそこからね」
セレナが頷いた。
セレナが転移の術式を描く。
「王都への転移は、私がやるわ」
「この塔は起動しなくていいのか」
「塔の力は一時的なものよ。瘴気を払っても、すぐに玉座に向かわなければ意味がない」
セレナが首を振った。
「今はまだ、起動しない方がいいわ」
「こんなこともあろうかと、この塔に来る前に王都に寄って座標を刻んでおいたのよ」
セレナが得意げに笑った。
「五百年前の私、偉いでしょ」
光が広がり、二人を包み込んでいく。
「さあ、行きましょう」
セレナが手を差し出した。
「五百年分の仕上げ、始めるわよ」
光が弾けた。
二人の姿が、消えた。
後には、静寂だけが残った。
崩れかけた書物の塔が、沈黙の中に佇んでいる。
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