さよなら、モノクローム(短編集)
すまげんちゃんねる
花火が上がる、五分前
「なあ、夏川。楽しい?」
祭りの熱気の中、俺は隣を歩く彼女に尋ねた。返ってきたのは、風ぐるまのように淡々とした、いつもの声だった。
「……別に」
たった三文字。それだけ言うと、夏川はまたすっと前を向いてしまう。紺色の浴衣姿は、正直、心臓に悪いくらい似合っているのに、誘ってからずっとこの調子だ。
「金魚すくい、やるか?」
「……どっちでも」
「じゃあ、射的は?」
「……取れないでしょ、あんなの」
淡々と事実だけを告げてくる。だんだんと、誘ったこと自体が間違いだったような気がして、胸の奥が重くなっていく。
その時、「まもなく、花火の打ち上げが始まります」というアナウンスが響き、人の波が一斉に動き出した。
「うわっ!」
強い力で押し寄せた波に、俺はよろめいた。一瞬、夏川との間に人が割り込み、彼女の姿が見えなくなる。
「夏川! 大丈夫か!?」
焦って声を張ると、少し離れたところから「……大丈夫」と、か細い声が返ってきた。人をかき分け、なんとか彼女の隣に戻ると、いつも真っ白な顔が少しだけ青ざめて見えた。
「はぐれるかと思った……。すごい人だな」
「……うん」
「本当に大丈夫か?」
俺が心配してもう一度尋ねると、夏川は俯いたまま、ぽつりと言った。
「別に……」
ああ、まただ。心が諦めに傾きかけた、まさにその瞬間だった。
俺の右手に、不意に柔らかくて温かいものが、そっと触れた。
視線を落とす。そこには、俺のTシャツの裾を、ぎこちなく掴もうとしている夏川の小さな手があった。いや、掴もうとして、ためらって、結局触れるか触れないかの位置でさまよっている指。
「夏川……?」
俺が名前を呼ぶと、彼女はびくりと肩を震わせ、触れていた手を慌てて引こうとする。
その手を、引かれるよりも先に、俺は自分の手でそっと包み込んだ。
夏川の手は、驚くほど熱かった。
「!」
隣で、彼女が息を呑む気配がした。顔を上げないまま、きゅっと唇を結んでいる。提灯の赤い光に照らされたその耳だけが、熟したリンゴのように染まっていた。祭りの喧騒が、急に遠くなる。
「はぐれないように、な」
なんとかそれだけを絞り出すと、彼女は小さく頷いた気がした。
遠くの空で、ヒュルル、と最初の花火が空気を切り裂く音が聞こえる。繋がれた手のひらの熱の理由を、俺はもう、分かってしまっていた。
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