第5話 嘘と真実の境界線

 自室に戻った葛城は在宅ワークで使用しているデスクの前に立っていた。

 上から2番の棚に手をかけて引く。

 資料やら文具がごちゃごちゃと入った引き出しの中に1つの瓶が転がっているのを見つける。

 手にとってかざすと、瓶の中には薄ピンク色の錠剤が数十錠入っている。

 (この薬を使うのは、そういえば初めてだな)

 由那は感覚的に人の言葉を嘘かそうでないか見分けることができる。葛城のケアを本能的に嘘と見抜いてしまえば精神的プラシーボの効果を得ることは不可能に近いだろう。だが由那が葛城のケアを本当だと信じ込ませることができたら?

 この錠剤は嘘を吐く時に無意識的に発する眼球移動、手癖、心拍の変動を抑えるための抑制剤だ。ターミナルホープとして訓練、経験が浅い者が処方したり、ケアを疑われた時に使用する。

 3錠、抑制剤を手の平に取り出して水で流し込みソファに横になる。寝る時にはまだ睡眠薬は欠かせなかった。


 バレエの話の件から由那は葛城の言葉を少しずつ聞くようになった。投薬によるメインの処置とターミナルホープのケア、両方の治療により由那の体調も入院当初より少しずつ快復していったのだ。

 また抑制剤の効果か由那は葛城のことを無意識的に疑うことが少なくなった。

「葛城先生、もしかしたら由那の病気治る日が来るかな?」

 診察の際、期待を抱く目で葛城にそんなことを聞いた。

「ああ。由那ちゃんの症状は確実に良い方向に向かってるよ。だから大丈夫。絶対、由那ちゃんは元気になる。そしたらバレエを好きなだけ踊ろう」

「……うん! 由那が踊ったら葛城先生絶対見に来てね」

 2人のやり取りを香奈恵は微笑みながら見守っている。

 葛城は由那の瞳に、生きる光を灯す。葛城は懸命に励まし、精神性プラシーボが発現することを期待した。

 ――だがその代償は思わぬかたちでやってくることになる。


 持ち回りの患者への回診を終え、看護師たちに各患者へ処方する点滴や薬を指示した後だった。

 診察室でカルテを記入していた葛城の元に慌てた様子の看護師がひとり駆けてきた。

「先生! 303の患者ですけど本当にカルテで指示されている抗がん剤投与であってますか? あの型番の抗がん剤なんてウチにはありませんよ?」

 看護師の質問に葛城はカルテを見返して確認する。

「いや、間違いないよ。彼にはAIで最適化された抗がん剤を……」

 そこまで言って葛城は自分の発言に驚愕した。思わず自分の口を手で塞ぐ。

 今、葛城が言おうとした303の末期患者に処方する抗がん剤はターミナルホープのケアとして吐いた嘘の型番だった。

 精神性プラシーボを発現させるため患者には最もらしい治療薬を伝えるが、間違っても事象を知らない看護師にそれを指示してはならない。

 嘘を吐いていいのは患者に対してだけだ。

 慌てて先ほどまで記入していたカルテを見返してみる。カルテに記載されている内容はデタラメばかりだった。

 ターミナルホープの依頼が無い患者のカルテにまで虚偽の治療内容が、さも事実かのように並べられている。

 吐き気を堪えて葛城はトイレへ駆け込んだ。便器に胃の中のものを全て吐き戻した。

「そんな。恐れていたことが……」

 葛城は診察室にあるカルテの束を持ち、医院長室へと向かった。

 焦る気持ちを抑え、ノックして重厚な木の扉を開けるとオフィスデスクに書類を並べて忙しそうにしている医院長の姿があった。

 葛城のアポ無しの来訪に医院長は面を食らう。

「葛城先生どうしたんだ? そんな切羽詰まった顔をして」

 葛城はデスクの上の書類もお構いなしに、手に握りしめていたカルテをどさりと置いて身を乗り出す。

「医院長。これを見て下さい。これは……私の書いたカルテです」

 医院長は1枚のカルテを手に取り目を通す。すぐさま目を見開き、葛城の顔を凝視する。

 その表情を見て葛城はゆっくりと頷く。

「葛城先生、これはまさか」

「医院長の思っている通りです。私には嘘と現実の境界が判別つかなくなってしまいました。おそらくは睡眠薬と抑制剤の併用。抑制剤を飲み過ぎていたのも関係があるかもしれません。嘘吐きが、嘘と真実の見分けがつかなくなってしまえば、それはもう嘘吐きではありません。ただの狂言者です。……私は、ターミナルホープとしてこれ以上働くことができません」

 嘘と真実の境界が曖昧になってしまった以上、葛城は出鱈目なこと言うだけの医者になってしまった。これでは誰も葛城の言うことは信じられないし、周囲に対して甚大な迷惑がかかる。

 ターミナルホープの最悪の末路を葛城は辿ってしまった。

「……事情はわかった。最悪の事態が怒る前に申し出てくれて助かった。礼を言う。葛城先生の処遇および今、担当している患者の後任は私の方で考える。今日のところは家に帰りたまえ」

「わかりました。それと、後任についてですが、特に天原由那さんのケアについては優秀なターミナルホープを担当させて下さい。彼女はようやく生きる希望を見出し始めました。今が1番大切な時です。何卒、よろしくお願いします」

 最後まで担当したかったという悔しさを抑え、葛城は深く頭を下げる。葛城が願うのは由那に、この先の人生を生きてほしいという一心だった。

「わかった。考慮しよう」

 医院長が重く頷くのを確認し、葛城は安堵の息を漏らす。医院長は何か言いたげだったが、葛城は気付かないふりをした。ここですがってしまえばきっと葛城は自分を誤魔化す。虚構と現実の境界がわからなくなったターミナルホープは希望でも何でもない。葛城は踵を返して医院長室を後にした。

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