ターミナルホープ

瀬古悠太

第1話 プロローグ

 そろそろ春になるというのに吹き付ける風はまだまだ厳しく、身体を芯から冷やしていく。木枯らしが舞うこともできないほど枯れきった裸の樹木たちがゆらゆらと揺れているのが廊下の窓の外から見てとれた。

 ツカツカと単調なリズムでリノリウムの床を踏みしめていく。白を基調とした無機質なデザインは清潔感を感じさせる一方で無慈悲な冷徹さを感じさせる。

 白い扉の前にたどり着くと人感センサーが感知して扉が音もなくスライドする。

 身体を滑り込ませるように部屋に入る。

 左右対称に5床ずつ、計10床のベッドが配置された病室。徹底的に漂白された布団は蛍光灯の光を反射させてわずかに眩しい。

 目的地である左奥のベッドに歩みを進め、覆われたカーテンに手をかける。

「北条さん、おはようございます。経過の報告と説明に来ました。開けますよ」

 レールに沿ってカーテンをスライドさせる。目の前にはベッドの背もたれを上げ、もたれかかる痩せぎすな成人男性が虚げな表情で窓から空をぼんやりと眺めていた。

 骨ばった腕に何度も刺されている点滴の痕が痛々しい。まだ20代半ばだというのに実年齢よりもずっと老けて見えた。

 彼は自分が診察の結果を告げに来たことに興味を示している様子はない。チラリと一瞥するとまた窓に視線を向けてしまった。

 若くして末期の癌に身体を蝕まれた青年。苦痛を伴う治療、出口の見えない入院生活の中で彼が絶望し、心を閉ざすには材料が揃い過ぎていた。

 本来なら仕事や趣味に打ち込み、人生を謳歌しているはずだったであろう。その輝かしい未来がある日突然、病によって全て奪われる。

 どうして自分だけが? なんでこんな目に遭わなければならないのか? きっと彼は何度も自問したはずだ。だがどんなに問いても答えが返ってくることはない。ただ運が悪かった。そんな無慈悲な現実があるだけだ。

 コホン、と咳払いをしてベッドの横にあった簡素な丸椅子を引き寄せて腰掛ける。いつの間にか自分の後ろにはこの病室担当の看護師が立っていて、タブレットを胸の位置で抱えていた。

 看護師からタブレットを受け取り、スリープ状態から立ち上げ診察結果をまとめたレポートを表示させる。

「北条さん。こちらが今回の診察の結果です。ほら、ここ見て下さい。この数値が前回に比べてかなり下がってますよね。これは良い傾向ですよ。転移している癌細胞の数が減少している証拠なんです」

 快活な笑顔を北条に向けて、説明を続ける。

 タブレットに表示されているグラフを拡大し、減衰傾向であることを見せる。しかし北条は興味を示した様子ではない。

 気を取り直し、さらに説明を続ける。

「今、飲んで頂いてる抗がん剤から新しいやつに変えましょう。最新技術でAIが北条さんの症状から最適な成分、組み合わせで調合した抗がん剤です。これを見て下さい。」

 操作していたタブレットを再び北条へ向ける。

 そこにはNeural Networkがあらゆるパターンから最適な組み合わせを選択していく過程が模式的に描かれていた。素人には何が書いてあるかさっぱりわからない複雑な数式やグラフが次々に映し出される。

 そして、タブレットを置き北条の手をしっかりと握った。北条は突然のことに、思わず窓に向けていた顔をこちらに向ける。揺らいだ瞳を見つめ、再度手を強く握る。

「北条さん、不安かもしれません。でも大丈夫です。北条さんの病気は必ず治ります。ご趣味のヨット、またできるようになりますよ」

 笑顔を浮かべ、目の前の生きる希望を失った患者を奮い立たせるように、強い言葉でその背中を押す。

「生きましょう」

 最後の一言が耳に届いた時、北条の顔に光が差すのを感じた。生きたいと願う患者の希望の光だ。

「……はい。私、頑張ります。頑張って治して、またヨットの大会に出ます」

 今度は北条の方からその手を握り返してきた。北条の目からは涙が流れている。

「ええ。頑張りましょう! 北条さん」

 答えるように最後にもう一度手を握った。


 今後の治療の計画について説明し、看護師とともに病室を後にする。

「先生、よかったですね。北条さん塞ぎ込んだままになっちゃうかなって心配してたんですよ。先生が励まして下さったおかげですね。最新の技術もすごいですね。今じゃAIが何でも解決しちゃうんですから」

 重苦しい雰囲気から解放された反動か、看護師は興奮した様子で一方的に喋る。

「すまない……私はトイレに寄ってから診察室に戻るよ」

 疲れた様子を察した看護師は慌てて謝罪の言葉を述べる。

「すみません。私、ひとりで喋ってしまって。先に戻っていますので。ごゆっくり」

 看護師は一礼すると受付へ戻って行った。その姿が見えなくなるのを見届け、足早にトイレの個室へと入る。

 便器に顔を近付け、少し前に食べた朝食を全てぶちまけた。胃の中の物と一緒にせり上がってきた胃液が喉を焼く感覚が恐ろしく不快だ。

 臭いものに蓋をするようにすぐさま流し、洗面台で口で苦さと酸っぱさが入り混じった口をゆすぐ。

 顔を上げ正面を見ると、やつれた幽鬼のような男が立っていた。頬に手を当て、それが鏡に写った自分だと認識する。

 励ます前の北条よりもよっぽど、自分の方が生きることを諦めたような目をしている。

「俺は……一体いつまで嘘をつき続ければいいんだ」

 静寂に包まれた鏡の前でひとりごちる。

 葛城崇裕かつらぎたかひろ、患者に嘘をつくことが許された唯一の医者"ターミナルホープ"としての苦悩が心を少しずつ確実に蝕んでいた。

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