第一章 白騎士と空気の王子
1話 形式上の兄ができました。
*白騎士と空気の王子*
ユリ──
誰かが呼んでる。
……殿下。
ああ、銀の髪。
月の光。
その光の中で、誰かが笑った気がした。
「ユリウス──」
名を呼ばれた瞬間、胸の奥がふっと温かくなる。
“ユリウス”。
ああ、それはオレのことか──?
「ユリウス殿下!」
その声に、意識が現実へと完全に引きもどされる。まぶたの裏に滲む光が眩しくて──息を吸い、そっと目を開けた。
……夢、か。
月の光も、銀の髪も、もうどこにもない。
朝の冷たい空気の中、低く落ち着いた声が耳に届く。
「ユリウス王子、朝食のご用意ができております。」
呼ばれるままに視線だけ動かしてゆっくりとながめる。
視界に映るのは優美な姿で直立不動に立つ男。
けっして声は荒げない。
それなのに、その静音には不思議な圧がある。
ユリウス・アストレイア=ラファエル・ゼルヴァン。
舌を噛みそうなその名が自分のものだと知ったのは、つい最近のことだ。
──アストレイア帝国を
第一王子ユリウス。
そんな“ご立派すぎる”立場など、自分には無縁のものだと思っていた。
その上──誰が言い出したのかも知らない別名、“空気の王子”。
牢のような離宮に暮らすオレの耳にも、その噂だけは届いていた。
人の言葉はいつだって勝手に育ち、勝手に歩きまわる。
「……今朝は黒麦のパンに根菜のスープ、干し肉を少々──」
無機質な声が、献立を淡々とつたえる。
それはまるで伝令人形のように感情のない仕草。
オレを朝から憂鬱にさせた男、ゼノ。
一番、苦手なヤツだ。
眠りを乱され、オレの朝はまた憂鬱に塗りつぶされる。
ゆっくり寝返りをうつと、あいかわらず乱れたままの部屋が視界にうつる。
カーテンの隙間から差しこむ薄あかりが、竜の爪の脚をもつ椅子を撫で、脱ぎちらかした衣服に淡い影を落としている。
寝台の隅には、藍色の騎士服を着せられた球体人形が一、二、三体。
白磁の顔。伏せた瞳。
少年の姿を模した、細かな細工の人形たち。
そのうち片目だけがうっすらと開き、こちらを見ていた。
瞬きもしないくせに、視線だけは正確にあう──美しくて、不気味で、でもたぶん好き。
あいつらだけが、ひとりぼっちのオレをちゃんと見ていてくれたから。
夜の名残が重く残って、息をするのさえ億劫になる。
寝台のうえに転がったまま、あの人にもらったミルク色の毛布を抱きしめて小さく息をついた。
「──寂しい時は、これを抱いてください」
そう言って、あの人は自分の手で、くるくると器用に丸めてくれた。
やわらかなぬくもりと、微かに残るあの人の残り香が、さみしさで空っぽの心をかろうじて繋ぎとめてくれる。
恋しくてたまらない。
***
「朝、九つより謁見に備えた身支度、
静寂を破るように、オレのすぐ横でゼノの声がひびく。
白い騎士服に、寸分の狂いもない動き。
呼吸すら気配を見せないその姿は、まるで──“契約に従うだけの影”
ゼノの
背は高く、鍛えられた体つきは兵士のように逞しい。
それでも整った顔立ちが加わることで、荒々しさよりも美しさのほうが際立って見える。
グレイッシュブルーの瞳は誰の姿もうつさず、ただ定められた未来だけを見つめているのだろうか。不安になるくらい、静かすぎる。
気だるい身体をどうにか起こし、ソファへとダイブする。
編み上げのニットが片肩へずり落ち、お気に入りの藍色のパンツは腰でなんとかとまっている。
素足のまま脚を無造作に開く姿は当然…行儀はよくない。
深紅のビロード張りはやわらかく、オレの身体の輪郭をすっぽりと包みこんでくれている。
この吸いこまれるような感触は、安らぎよりもむしろ怠惰を誘い、人を抗えない甘美な眠りへと縛りつけてしまう気がしてならない。
規律の朝には、似つかわしくない格好なのは百も承知だけど、王子を象徴する
今日もまた、望みもしない“ユリウス王子”を演じる時がやってきた──。
そんなやる気のないオレを、数人の侍女たちがとり囲む。
薄い木綿の紙に精製水と花々の香を混ぜた宮廷の姫君御用達のシートを顔にのせられ、さらに薔薇水を散らされ、銀の櫛で髪を整えられていく。
爪先まで磨かれ、光沢を与えられていくたびに、まるで宮廷の姫君にでもなった気分だ。
……オレ、いったい何をめざしてるんだろう。
抵抗する気力もなく、ただされるがまま。
「……それ、ぜんぶ、忘れていい予定にしてくれない?」
侍女が入れてくれた甘口のミルクティをすすりながら、ゼノに訴えてみるが、もちろん返事はない。
彼に“心”を求めるのは、最初から無意味だとわかっている。
ため息まじりにティーカップを置き、背もたれにもたれ、顔にのせていたシートを外し、手のひらでそっと化粧水をなじませる。
ひんやりとした感触が肌に染みて、やっと目が覚めてくる。
オレは頬杖をつき、再びゼノへ視線を向けた。
ゼノはテーブルの脇で、背筋を一分の隙もなく伸ばしたまま予定書に目を落としている。
その立ち姿だけで、空気が張りつめる。
この威圧感が、たまらなく腹立たしい。
オレの背をすっぽり隠すほどの体格。
いつも後ろに立たれるたび、まるで見下ろされているような気がして、息が詰まる。
無感情で、無機質──なのに、あの人と同じ整った顔立ち。
でも、違う。
銀髪の、冷たくて、美しいあの人。
背は高いのに、威圧なんてひと欠片もない。
後ろに立っても、見下ろすんじゃない。
いつも三歩後ろから、そっと見守ってくれる。
「抱きしめて」と言えば、静かに腕をまわしてくれた。
あたたかい、息づかい。
くちびるがふれて、やわらかくて、熱くて──。
あの感触を思い出しただけで、胸がきゅっと痛む。
ああ、もう一度、あのぬくもりに触れたい。
……白銀の騎士、ソアラ。
──会いたい。
早く……会いたい。
この苛立ちも、不安も、寂しさも、全部……。
このどうしようもない心ごと、抱きしめてほしい!!
「……ふぅ」
小さく息を吐いて、ソファの背もたれに身体をあずけ直す。
──やばい。
また、変な妄想の世界に落ちていた。
指先で前髪をくるくるといじりながら、なんでもない顔でゼノへ視線をもどす。
「……で、ソアラはまだ? 来ないの?」
何気ないふうを装ったつもりだったのに、名前を口にしたとたん、口元がゆるんでそばにあったクッションを慌てて抱き寄せる。
何?この感覚。
ああっ…ほんと、どうかしてる。
ふわりと薔薇の香りがして、鼻先がくすぐったい。
──ゼノには見せられない。
横目でそっと伺うと、ゼノの瞳がほんの一瞬だけゆれた気がした。が、次の瞬間には、なにごともなかったように静かな色へもどっていた。
「兄上は本日、公務の為不在です」
…そっか。
今日もまだ、会えないんだ──。
その一言で、オレの中でギリギリ繋ぎとめていた、生命スイッチが切れた。
ソファの背もたれにぐったり沈み、両手両足を投げ出して完全にやる気なし。
侍女が櫛で髪をとかしていても、わざと知らんぷり。
まるで駄々をこねる子どものようだ。
ゼノの声も、どんどん遠くなる。
まるで催眠音声。
……無理。
もう、起きあがる意味ないじゃん。
身体をソファにすっぽり沈めたままオレは天井の金箔の星座模様をぼんやりとなぞる。
別名、《
“無限”を意味する名を与えられても、その
人の姿をしていても、人じゃない。
まるで人形──…。
そんなゼノたちが、形式上の”兄”だと名乗る。
笑っちゃうよな。人形みたいな存在に、兄だなんて。
でも──ほんの少しだけ。
《家族》という言葉に、心が動いたのも事実だった。
ずっと天涯孤独で、誰とも繋がっていないと思っていた自分に、急に現れた、血の繋がらない兄たち。
たとえ偽物でも、《誰かの中に存在できる》って──それだけで、人は救われるのかもしれない。ひとりじゃないんだって。
そんな兄たちが、六月前に突然この離宮に現れ、オレを王位継承──つまり、皇帝の器になるよう命じてきた。
戴冠式。王位継承。成人の儀。
いきなりそんなことを言われても。
──ぜんぶがまるで、他人ごとだ。
急に“空気の王子”から”ユリウス王子”になれと言われても、白々しいにもほどがある。
何も持っていなかったオレに与えられたものは、”王位継承”と、”家族の形”の肩書き。
あの日からオレの生活は何もしないただ息を吸っているだけの毎日から規律の日常に変わっていった。
ああ、オレの運命、一体どこへ向かっていくんだろう──…。
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